A:政争~呂布軍時代
【建寧2年(169年)~建安元年(196年)】
後漢:建寧2年(169年):1歳
本来、聶壱(じょういつ)(漢代に匈奴との交易を利用して匈奴をだまして陥れようとした男)の子孫であるが、復讐を避けるために、姓を変えたのである。
若い頃、郡吏として働く。
并州刺史の丁原に、人並み外れた武力を見込まれて、スカウトされて従事となる。(張遼伝)
後漢:光和7年→中平元年(184年):16歳
2月:張角、各地で一斉蜂起。黄巾の乱が起こる。
黒山賊など、他の賊も蜂起する。
後漢:中平5年(188年):20歳
未明:冀州の刺史・王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らが豪傑と連合を組み、霊帝を廃位して合肥侯に擁立する計画を立てて、曹操に打ち明けた。曹操は参加を拒否した。計画は失敗した。(武帝紀)
華歆も声をかけられたが、無視した。王芬の計画は失敗した。(華歆伝)
詳しくはこちら→【合肥にまつわるお話 - 】
後漢:中平6年(189年):21歳
霊帝、崩御。
何進、宦官を誅殺するため、丁原や董卓など、諸将を洛陽に招集する。
(このとき、呂布、張楊もいっしょに上京する)
丁原、騎都尉に任命される。
後漢:光熹元年(189年):21歳
劉弁が皇帝に即位する。少帝。
張楊も兵を募集するため、洛陽を離れる。
8月:何進が宦官に殺される。また、何進の弟である何苗も殺される。
董卓、少帝と劉協を保護して洛陽へ入城する。また、何進と何苗の軍勢を吸収する。
丁原、執金吾に昇進するが、并州から連れてきた軍勢はそのまま丁原の下に置かれた。
董卓、執金吾の丁原を呂布に殺害させて、その軍勢を併合した。(董卓伝)
後漢:昭寧元年(189年):21歳
9月:劉協が皇帝に即位する。献帝。
後漢:永漢元年(189年):21歳
何進がすでに殺されていたので、張遼は、兵1000人を連れて董卓の配下になる。(張遼伝)
12月:光熹・昭寧・永漢の元号三号は除かれ、再び中平6年に戻された。
後漢:初平元年(190年):22歳
反乱軍、反董卓連合軍を結成。
未明:幽州遼東郡の公孫度は、中原の騒乱を知ると、目をかけていた官吏の柳毅・陽儀らに「漢の命運は絶えんとしている。いまこそ、諸君らとともに王の位を狙うべきだ」と語った。
遼東の王を名乗った公孫度は、遼東郡を分割して遼西中遼郡、太守を置いた。
また、海を越えて、青州の東萊郡諸県を収め、営州刺史を置いた。
後漢: 初平2年(191年):23歳
【陽人の戦い】董卓軍vs反董卓連合軍→反董卓連合軍の勝利
董卓、洛陽を焼き払って長安へ遷都
後漢:初平3年(192年):24歳
夏4月:董卓が敗北する(呂布に殺害された)。
呂布が李傕に打ち破れると、呂布について東方の徐州に逃げた。(張遼伝)
董卓死後から長安脱出までは60日。また、呂布についていった者は数百騎。(呂布伝)
呂布、袁術を頼るも拒否される。
次に、北方の袁紹を頼る。
袁紹は、公孫瓚に味方する張燕(黒山賊)と戦っていた。袁紹は呂布を迎え入れた。
呂布は、袁紹ともに、冀州常山にいる張燕(黒山賊)を攻撃する。
張燕(黒山賊)の軍を撃ち破った後、兵員の増強を要求したり将兵が略奪を行ったりしたので、袁紹は呂布を疎ましく思うようになった。呂布も袁紹の気持ちに気づいたので、袁紹の下を去ることにする。
袁紹、呂布に闇討ちをしかけようとしたが失敗した。
呂布は逃亡し、張邈と会い、手を取り合って誓いを立てる。
その後、河内に向かい、張楊と合流した。(呂布伝)
曹操、兗州の牧になる。(武帝紀)
孫堅、荊州の劉表の将・黄祖と戦い、罠にかかって死亡。
後漢:初平4年(193):25歳
あちこちで小競り合い。
後漢:興平元年(194年):26歳
春:曹操の父・曹嵩が陶謙により殺害される。
夏:曹操が復讐を志して東方の徐州の征伐に向かう。
張邈、張邈の弟の張超、曹操の将軍陳宮、従事中郎許汜・王櫂らと結託して曹操に謀反した。
張邈は、呂布を兗州牧とし、濮陽に駐屯した。
郡や県はすべて呼応したが、(荀彧と程昱がいる)鄄城、東阿・范県だけが、曹操の味方をして守りを固めた。
曹操は軍を引き返して帰途につき、呂布と交戦した。(武帝紀)(呂布伝)
徐州では、陶謙が死に、劉備が彼に代わった。(武帝紀)
後漢:興平2年(195年):27歳
河東にいた天子(献帝)が、呂布に迎えに来るよう手紙を送る。呂布の軍には貯えがないので出かけられず、使者を派遣して上書した。朝廷は、呂布を平東将軍に任命し、平陶侯にとりたてたが、使者が手紙をなくした。(呂布伝 英雄記)
春:曹操が定陶を襲撃する。呂布、援軍として曹操と戦うも、負ける。
夏:呂布、鉅野(きょや)で曹操軍を迎え撃つも、負ける。
後漢:建安元年(196年):28歳
2年経ち、曹操は諸城を全て奪い返し、鉅野で呂布を撃ち破った。
呂布は東へ逃れ、劉備を頼った。
劉備が東へ向かって袁術を攻撃している間に、留守を任されていた張飛と曹豹がケンカして、張飛が曹豹を殺してしまった。
劉備の中郎将・許眈が呂布を誘って、呂布は下邳を襲撃して奪い取った。(呂布伝 英雄記)
劉備は帰還すると、呂布に身を委ねた。呂布は劉備を小沛に駐屯させた。
呂布は、勝手に徐州刺史を名乗った。(呂布伝)
張遼は、魯国相の役を引き受けた。時に28歳。(張遼伝)
泰山の臧覇・孫観・呉敦・尹礼・昌豨が、呂布に付き従う。(武帝紀)
6月:呂布の大将の河内の郝萌が反乱を起こした。共謀者は陳宮?呂布は、陳宮が大将であることから、不問に付した。(呂布伝 英雄記)
秋7月:献帝、洛陽へ戻る。
8月:献帝、張楊が整備した宮殿に移住する。
9月:曹操が献帝を保護した。
天子は曹操を司空に任命し、車騎将軍を兼務させた。(武帝紀)
曹操、呂布を平東将軍に任命する。(呂布伝 英雄記)
曹操、袁紹を大将軍に任命した。
袁紹は、長男の袁譚に青州を、次男の袁煕に幽州を、甥の高幹に并州を、それぞれ治めさせた。軍勢数十万、審配と逢紀に軍の事務を統括させ、田豊・荀諶・許攸を参謀に、顔良と文醜を将帥に任命し、精鋭の兵10万、騎兵1万騎を選り抜いて、曹操の本拠地である許を攻撃しようとした。(袁紹伝 463P)
後漢:建安2年(197年):29歳
袁術が皇帝を僭称する。
当時、袁術の味方をしていた孫策は、手紙を送って非難し、袁術との関係を断った。
曹操が上表して、孫策を討逆将軍に任じ、呉侯に封じた。
呂布のもとに曹操よりの使者が到着し、呂布を左将軍に任命した。呂布は大いに喜び、許都に向かう陳登にささげ文をもたせて感謝の意を表明させた。
呂布、徐州刺史に任命されず(自称のまま)
袁術が、呂布を攻撃する→呂布の勝利。
徐州東海で、琅邪の相として莒を治めていた蕭建という者がいる。
蕭建は、呂布の配下になった。
この後、臧覇に襲撃されて撃ち破られた。臧覇は、蕭建が蓄えていた物資を手に入れた。 怒った呂布は、高順の諫めを聞かずに臧覇を攻めた。臧覇の勝利。
臧覇は後に、再び呂布と和睦した。
未明:趙儼と繁欽が、曹操に士官する。(趙儼伝)
後漢:建安3年春(198年):30歳
呂布は、再び曹操に対して反旗をひるがえして、袁術の味方をする。
また、劉備の救援に来た夏侯惇を撃退する。(呂布伝 英雄記)
曹操が、下邳城を包囲した。
河内太守として河内にいた張楊は、呂布を救援したいと思ったが、できなかった。
そこで、河内郡野王県の東の市場に出兵して、はるかに声援を送った。(張楊伝)
妻に陳宮と高順の不仲を指摘されて出撃を中止するわ、袁術の援軍は見込めないわ、荀攸の策で下邳城内を水浸しにされたり、他にもいろいろあったので(省略)。
呂布に愛想をつかした魏続・宋憲・侯成が、陳宮を縛り上げて、配下の軍勢を引き連れて、曹操に降伏した。
呂布は、直属の兵とともに白門楼の上に登った。軍兵の包囲が厳しくなると、おりてきて、降伏した。呂布は、生け捕りにされた。
呂布・陳宮高順は、晒し首にされた後、許都に送られて、埋葬された。(呂布伝)
張遼は軍勢を引き連れて降伏し、中郎将に任命されて、関内侯の爵位を授けられた。(張遼伝)
降伏者の処遇
張遼=中郎将と関内侯(張遼伝)
臧覇=琅琊の相
呉敦(ごとん)=利城太守
尹礼(いんれい)=東莞太守
孫観(そんかん)=北海太守
孫康(そんこう)=城陽太守
青州・徐州を割いて、臧覇に委任した。(臧覇伝)
涼茂(りょうぼう)=泰山太守(涼茂伝)
畢諶(ひっしん)=魯国の相
魏続・宋憲・侯成は不明。
その他
車冑(しゃちゅう)=徐州刺史
劉備=左将軍
けろりっちは呟く。
『檄呉将校部曲文 作者:陳琳』というものがあります。
三国志は、いろいろな逸話があります。その中でも、信憑性が高く信用できそうなものが、この檄呉将校部曲文です。この檄文の中に『師臨下邳,張遼侯成,率衆出降,』という文章があります。
張遼は、侯成といっしょに降伏したということらしいです。
『 呂布に愛想をつかした魏続・宋憲・侯成が、陳宮を縛り上げて、配下の軍勢を引き連れて、曹操に降伏した。』
と、けろりっちは書きましたが、本当は
『 呂布に愛想をつかした魏続・宋憲・侯成・張遼が、陳宮を縛り上げて、配下の軍勢を引き連れて、曹操に降伏した。』
が、正解なのかもしれないです。
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