けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

荊州江夏郡の江夏太守・黄祖

黄祖、という人がいます。

息子は黄射(こうえき)

荊州の劉表の配下です。

荊州江夏郡沙羨県で江夏太守を務めています。城は夏口にあります。

『江夏太守』『夏口』というと、黄祖が亡くなった後、劉琦が後任になった、あの夏口です。

 張遼伝の中に『別軍を率いて荊州を攻撃し江夏の諸県を平定し~』とありますが、時系列は分からないわ、誰となにがあったのか詳細不明でしたので、荊州江夏郡の江夏太守・黄祖について、簡単に調べてメモりましたので、ここに公開します。

参考にしたものは、ちくま正史三国志です。

あくまで、張遼が江夏に来た時系列が知りたいだけなので、省略しまくりです。

 ★初平3年(192年)

 孫堅、袁術からの命令で荊州の劉表を攻める。

 劉表は、黄祖を送り、孫堅を迎え撃つ。

 孫堅、黄祖の罠にかかって死亡。 (孫堅伝 30P)

★建安4年(199年)

 孫策、詔勅により、袁術と劉表を攻めることになった。

袁術は死亡した。(省略)いろいろあって、劉勲と黄祖と交戦した。(孫策伝 52〜53P)

 劉勲を尋陽に討伐し、さらに軍を進めて黄祖を沙羨に攻めた。(程普伝 111P)

 尋陽の劉勲を討ち、江夏の黄祖を攻めた。(董襲伝 130P)

★建安8年(203年)

 孫権は西に軍を動かして黄祖を撃った。水軍は打ち破ったが、城は落とせずにいた。

山岳地帯の不服住民が動き出したので、黄祖討伐は中止した。(呉主伝 75P)

★建安11年(206年)

 荊州江夏太守の黄祖が、柴桑(さいそう)に鄧龍(とうりゅう)を遺り(送り)、数千人を率いて柴桑に侵入させた。周瑜はこれを追撃し、鄧龍を生け捕りにして呉へ護送した。(周瑜伝 52P)

 黄祖の息子の黄射が、あるとき、数千人を率い、長江を下って徐盛に攻撃をかけて来たときがあった。徐盛の手元には、そのとき、軍吏と兵士を合わせても200人に満たぬ数しかいなかった。徐盛は、黄射を迎えて一歩も退かずに戦った。黄射の軍吏や兵士千余人に傷を与えた。さらに、城門を開いて兵をくり出して戦い、徹底的に打ち破った。黄射は、このことがあって以後、あとを潜めて二度と侵攻してくることはなかった。(徐盛伝 147~148P)

 張遼、別働隊として荊州へ。荊州を攻撃し、江夏の諸県を平定した。

帰還して、臨潁(豫州潁川郡臨潁県)に駐屯する。都亭侯にとりたてられた。(張遼伝 214P)

※ 黄射と鄧龍の侵攻は、具体的な時系列は不明です。

1.建安11年(206年)は各地で反乱が発生していて、曹操軍が鎮圧に東西奔走していること。

2.普段守るだけの黄祖が珍しく攻める側になっていること。

3.周瑜伝の記述の順番を信じて。

以上、上記1~3を理由根拠とし、周瑜伝の鄧龍侵攻と、徐盛伝の黄射侵攻を同時期と考えて、建安11年(206年)と判断しました。

※ 張遼の江夏平定と、周瑜の鄧龍追撃戦・徐盛の黄射迎撃戦が、つながっているのか、共同作戦だったのかは不明です。

★建安12年(207年)

 黄祖を攻める。配下の民衆を捕まえて連れ帰った。 

★建安13年(208年)

春:孫権、黄祖を攻めた。

 周瑜、呂蒙、周泰、凌統、董襲が精鋭をすべて投入して攻め立てたため、黄祖の城は落ちた。

黄祖は身一つで逃亡したが、騎兵の馮則(ふうそく)が黄祖の首を斬り、晒し者とした。

黄祖の配下男女数万人を捕虜とした。 (呉主伝 77P)

 他に、黄祖征伐の記録があった人(呂蒙伝 88P)(周泰伝 122P)(董襲伝 130~131P)(凌統伝 143P)

 甘寧。長いので省略。黄祖配下のときに凌操を射殺している。3年いた。(甘寧伝)

 

黄祖が亡くなった後は、劉琦が江夏太守になった。(諸葛亮伝)

 

けろりっちは、呟きます。

 けろりっちが一番知りたかった張遼伝の『荊州を攻撃して江夏の諸県を平定した』の時系列と、誰がどんなふうに関わったのか、結局、はっきりとは分かりませんでしたが。

 普段守りに徹している黄祖が、206年だけ息子と配下を南に向けて侵攻させているのを見ると、時期的に建安11年(206年)かな???ということに落ち着きました。

 南に軍を進めて呉将を釘付けにして、その間に北の曹操を突こうとして・・・・・みたいな??

何が凄いかって、張遼と孫家が、合同で黄祖を叩いていたかもしれない、という事実が分かったことです。あくまで、”かもしれない”ですが(´ε` )曹操と孫家は婚姻を結んでいるし、208年の赤壁までは、同盟関係だったとはいえ、後々の展開を考えると、とても不思議な気分です。

 黄祖は、物語が切り替わるときに出てくる中ボスってかんじ。

曹操にとっての中ボスが呂布なのと同じで(袁紹は大ボス)。

どうして伝記がないのか、不思議です。

 晩年の黄祖。甘寧伝を信じるなら、連戦で軍備を整えるお金が続かなくなったのかな?とか。(特に206年は孫家だけでなく曹操(の張遼)も来たので)

また、黄祖が高齢になって衰えていても、黄祖軍のなかには優秀な都督がいたようですので、それでまだ戦えたんだな、と思ったりですね!

 孫堅を討ってから16年間、孫家を防いだのは、素直に凄いと思います!

 もし、黄祖のお墓に向かってなにか言うなら。

 『お疲れ様でした』と言ってさしあげたいです。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。m(_ _)m

 

 

 

張遼が江夏に来た時系列を知るために、参考にしたもの

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

1巻[魏書Ⅰ]武帝紀(曹操)

2巻[魏書Ⅱ]夏侯淵伝、何夔伝

巻[魏書Ⅲ]張遼伝、楽進伝、于禁伝、李典伝、臧覇伝

6巻[呉書Ⅰ]孫堅伝、孫策伝、呉主伝(孫権)

7巻[呉書Ⅱ]周瑜伝、程普伝、呂蒙伝、周泰伝、董襲伝、甘寧伝、凌統伝、徐盛伝