けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

F:晩年の厚遇、後世の評価など

【後漢:延康元年(220年)~唐:782年:560年後】

後漢:延康年(220年):52

春正月:曹丕、丞相・魏王になる。
 建安25年を改めて、延康元年とした。(文帝紀)(呉主伝)

 2月:官位・爵位の大幅な改革が行われた。
 諸侯王・将相以下大将までの官に一万石の栗、一千匹の絹を授け、各人等級をつけて金銀を贈与した。(文帝紀) 

 張遼は、前将軍に転任になった。
領地を分けて、兄の張汎と一子(張虎)を列侯にとりたてられた。
絹千匹・穀一万石を賜った。(張遼伝)
未明:孫権が反逆した???
 曹丕、張遼を合肥に帰して駐屯させ、都郷侯に昇進させた。
 張遼の母に車を支給し、さらに兵馬をつけて張遼の家族を駐屯地まで護送させ、張遼の母が到着するときには先導と扈従(こしょう)に出迎えることを命じた。
 指揮下にある諸軍の将校軍吏は皆、道の両側に並んで挨拶した。見物の者はそのことを栄誉とたたえた。(張遼伝)

秋7月:孫権、使者を派遣して献上物を奉った。(文帝紀 140P)

 于禁の護軍だった浩周と、副将で軍司馬だった東里袞を魏に送り返した。(呉主伝 103~106P)

 未明:蜀の将軍・孟達が軍勢を引き連れて降伏した。曹丕は、孟達を列侯に取り立てて、新城の太守を担当させた。(文帝紀 140P)

 20日:軍は、(しょう)に滞留して、大宴会を催した。

 8月:石邑県より鳳凰が群れ集ったと報告された。(文帝紀 141P)

冬10月:曹丕、布令を出す。(省略)(文帝紀 143P)

冬11月28日:漢帝は、世論が魏の天下を望んでいることから、大臣高官たちを召し寄せ、高祖の廟で祭祀を行ってそのことを報告し、兼御史大夫の張音に節(使者のするし)を持たせ、天子の印綬と紐を捧げて帝位を譲った。(文帝紀 143~144P)

魏:黄初年(220年):52

冬11月28日:曹丕、禅譲を受けて、皇帝に即位した。

 元号を、延康から黄初に改めた。(文帝紀 143~144P)(呉主伝)

未明:曹丕が皇帝に即位すると、張遼を晋陽侯にとりたて、千戸を加増し、前と合計して2,600戸とした。(張遼伝)

 未明:曹丕、浩周を使者として送り、孫権を呉王に封じた。また、息子を人質として差し出すように伝えた。(文帝紀)(呉主伝)

 12月:洛陽宮を造営し、洛陽に行幸した。(文帝紀)

魏:黄初2年(221年):53

 裴松之の注釈:諸書に、「このとき帝は北宮に住まい、建始殿に群臣を参朝させ、門の名前を承明といった」と記録している。陳思王・曹植の詩に「帝に謁す承明の盧」といっているのがそれである。

未明: 張遼、洛陽宮に参内した。
 曹丕は、張遼を建始殿に案内させて引見し、親しく呉をうち破ったときの状況について訊ねた。
 曹丕は感歎して、側近の者を振り返って言った「彼は古代の召虎(しょうこ)である。」
 彼のために邸宅を建ててやり、また特に張遼の母のために御殿を作ってやった。
 張遼に従い募集に応じて呉軍を破った歩兵たちを、すべて虎賁(こほん)(近衛兵)とした。 (張遼伝)

夏4月:曹丕、曹仁を大将軍に任命した。(文帝紀)
 劉備が蜀漢の皇帝に即位した。諸葛亮を丞相とした。(先主伝)

 5月:鄭甘が反乱を起こしたので、曹仁に討伐させた。(文帝紀)

 劉備、劉禅を皇太子とした。

 6月:車騎将軍の張飛が殺された。

 7月:劉備、諸軍を統率して呉討伐に向かった。

 孫権は手紙を送って和睦を請うたが、劉備は聞き入れなかった。(先主伝)

秋8月:曹丕、孫権が息子を(人質として)送ってこないため、呉の使者を長く勾留した。

 孫権、使者を派遣して上奏し、あわせて于禁を送り返して、藩国の礼をとった。 

 曹丕、孫権を大将軍に任命した。

 未明:于禁、逝去。(文帝記)(于禁伝)(呉主伝 107P)

 未明:孫権が藩国の礼をとったので、張遼、兗州陳留郡雍丘に駐屯した。
 そこで、病気にかかった。
 曹丕は、侍中の劉曄に命じ、太医(御医、皇帝専用の医者)を連れて、お見舞いに行かせた。
 元部下だった虎賁(合肥の決死隊)たちは、張遼の様子を訪ねるため、道路にあふれた。
 曹丕は、病気が癒えていない張遼に迎えを出して、行在所に連れて来させて、御車にて親しく見舞い、張遼の手をとり、御衣を賜った。
 太官(天子の食膳係)が、毎日、皇帝のメニューと同じ食事を送った。
 病気がちょっと良くなったので、雍丘の駐屯地に帰った。(張遼伝)

冬10月:曹丕、楊彪に光禄大夫の官を授けた。(文帝紀)

 11月:曹丕は、孫権に策命を下し、九錫を授けた。また、孫権の息子の孫登に爵位を授けようとした。孫権は、上書して爵位を辞退するとともに、使者を送って呉の土産物を献上した。孫登を王太子に立てた。(文帝紀) (呉主伝)
  大将軍の曹仁を大司馬に任命した。

 12月:曹丕、東に巡行した。(文帝紀)

魏:黄初3年(222年):54

春正月:日食があった。

 陸遜は、将軍の宋謙たちを引き連れて蜀の5つの駐屯地を攻め、すべてを破り、そこの部将たちを斬った。

 2月:孫権から上書。『これから劉備を討ちます』(夷陵の戦い、開始)
 西域の王から使者が派遣されてきた。西域との交通が始まるようになった。

閏6月:夷陵にて、呉が蜀の劉備を撃破した。(夷陵の戦い、呉の勝利)

冬10月:孫権は、劉備が白帝にとどまっていると聞き、ひじょうに恐れ、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可した。(先主伝)  

 孫権が息子を送らなかったので、曹丕は、許昌から南方征討へ向かい、諸軍の兵はいっせいに進撃した。
秋9月:曹休・張遼・臧覇は洞口に軍を進め、曹仁は濡須、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃は南郡を包囲させた。 (文帝紀)(呉主伝 97P)
 曹丕、張遼に『 舟に乗って曹休とともに海陵まで行き、長江を臨む場所に駐屯するように。』命じた。(張遼伝)
 孫権は、呂範らに命じ、五軍を指揮して水軍によって曹休らの進出をくいとめさせ、諸葛瑾・潘璋・陽粲を南郡の救援に向かわせ、朱桓を濡須の督に命じて曹仁の侵攻をくいとめさせようとした。
 孫権としては、魏との衝突は避けたかったが、曹丕の堪忍袋の緒が切れたので、孫権は長江沿いの防備を固めた。(呉主伝)

冬11月:曹丕は、曹休に張遼・臧覇ら諸州郡の二十余軍を指揮させた。

 孫権は大変、張遼を恐れて、諸将に『張遼は病気だとはいえ、敵対してはいかんぞ。気をつけろよ』と命じた。

 張遼は、諸将(曹休・臧覇など)と、孫権の将・呂範らを洞浦において攻撃して、撃破した。
 また、大風がふいて船が転覆し、呂範らの兵士で溺死するものが数千人にのぼったため、呂範は、軍を江南へ引き上げた。

 張遼の病気は重くなり、そのまま江都で逝去した。

 曹丕は、張遼のために涙を流した。

 剛侯と諡された。子の張虎が跡を継いだ。

 曹休が、臧覇に命じて快速船500艘と決死隊一万を引き連れて丹徒の除陵を襲撃させ、攻城車を焼き、数千人を殺したり捕虜にしたりした。将軍の全琮と徐盛は、これを追撃して魏の尹盧(いんろ)を斬り、数百人を殺したり捕らえたりした。(曹休伝)(張遼伝)(臧覇伝)(呉主伝)(呂範伝)

 (この後も戦闘は続いたと思いますが、省略します。)

 12月:孫権は、劉備と友好関係を回復した。

魏:黄初6年(225年):3年後

 曹丕は、張遼・李典の合肥における戦功を思い起こし、詔勅を下した。
合肥の戦役に、張遼・李典は歩兵800をもって賊10万を撃破した。古代よりの戦争を考えるに、このようなことはかつてなかった。現在にいたるまで賊の戦意を失わせており、国家の爪牙ともいうべき臣である。よって張遼・李典の領地それぞれ百戸を分割して、一子に関内侯の爵位を授ける。
 張虎は偏将軍となって逝去し、子の張統があとを継いだ。(張遼伝)

魏:4年(243年):21年後

秋7月:皇帝・曹芳、詔勅を下し、太祖(曹操)の霊廟の堂前の広場にて、功臣20名を祭った。
大司馬   曹真、曹休
征南大将軍 夏侯尚
太常    桓階
司空    陳羣
太傅    鍾繇
車騎将軍  張郃
左将軍   徐晃
前将軍   張遼
右将軍   楽進
太尉    華歆
司徒    王朗
驃騎将軍  曹洪
征西将軍  夏侯淵
後将軍   朱霊、文聘
執金吾   臧霸
破虜将軍  李典
立義将軍  龐徳
武猛校尉  典韋

唐:782年:560年後

 唐王朝公認の【武成王廟六十四将(ぶせいおうびょう64よんしょう)】というものがあります。
『唐王朝以前に功績があった人を、 64人選出して祭ろう!』というものだそうです。
なんと、曹魏から2名!鄧艾と張遼が選ばれました!
おめでとうございます!推しの名前が、数百年後もこうしてあがってくるのは、嬉しいですね。(^O^)
詳しくはコチラ→【武成王廟六十四将 -

 

 

 

 

終わり★☆★彡

なにかみつかったら、追加します。