繁欽(ばきん)
張遼が危険を顧みず、諸将の反対を無視して、山登りを決行した結果、陳蘭・梅成の首を取り、数万人の軍勢を降伏させたうえに、あっという間に戦を終わらせたことがとても衝撃だったのか、張遼をたたえる詩を作った者がいます。
繁欽(ばきん)という人です。
趙儼、杜襲の友人です。
繁欽は、征天山賦という詩を作って、張遼の勇壮さを表現しています。
張遼のファンは、曹家(曹丕・曹植)だけではなかったようです。
記録に残ってないだけで、ファンはもっと多かったかもしれませんね!
☆*:.。. ヽ(≧▽≦)ノ .。.:*⭐︎
『征天山賦』で検索かけたらいろいろ出てくるので、調べてみてください(^^)v
繁欽の経歴
★繁欽(ばきん):豫州潁川郡?県の人
文才と機転のきく弁舌によって、若くして汝・潁の地方で名声を得た。繁欽は、書と記を得意としてるうえに、詩と賦を作ることが上手だった。繁欽が太子に送った書簡に、薛訪(せつほう)の御者がのどを転がすような美声で歌う内容が記述されているが、まずだいたい巧みで美しい文である。(文選 巻四十「与魏文帝?」)
丞相主簿となり、建安23年(218年)に亡くなった。(王衛二劉傅伝 典略)
★繁欽と友人
杜襲(としゅう):豫州潁川郡定陵県の人
趙儼(ちょうげん):豫州潁川郡陽翟県の人
荊州に乱を避け、杜襲・趙儼・繁欽の三人で財産・会計を共通にし、一つ家として一緒に暮らした。劉表は賓客の礼をもって待遇した。同郡の繁欽は、たびたび劉表に目をかけられたが、杜襲は彼に言い聞かせた。
「 わしが君といっしょに来た理由は、ただ奥深い藪に龍のようにじっとわだかまり、時節を待って鳳凰のごとく飛翔したいからなのだ。君は劉牧を、動乱を治める君主にまちがいなしと決め込んで、長者として身を委ねているのかね。君がもしこれ以上能力を示し続けるならば、わしの仲間じゃない。わしはまず君と絶交する。」
繁欽は悲痛な様子で「慎みてご命令どおりにいたしましょう」と言った。
曹操が、初めて献帝を迎えて、許に都を移した。
杜襲は、故郷に逃げ帰った。
趙儼は繁欽に向かって言った。
「 曹鎮東将軍は時運に応じ一世に名をあげられたからには、よく中華を正し、救われるに違いない。わしは誰に帰服すればよいか、わかったぞ 」
老人と年少者を助けながら、曹操のもとへ赴いた。 (杜襲伝)(趙儼伝)
参考にしたもの
ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)
3巻[魏書Ⅲ]王衛二劉傅伝(典略)
4巻[魏書Ⅳ]杜襲伝、趙儼伝