けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

公孫度(こうそんたく)公孫康(こうそんこう)

《公孫度傳》

公孫度字升濟,本遼東襄平人也。

公孫度(こうそんたく)字は升済(しょうさい)、幽州遼東郡襄平県の人なり。

(省略)

初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」

初平元年(190年)、公孫度は中原の騒乱を知ると、目をかけていた官吏の柳毅・陽儀らに「漢の命運は絶えんとしている。いまこそ、諸君らとともに王の位を狙うべきだ」と語った。

(省略)

分遼東郡為遼西、中遼郡,置太守。

遼東郡を分割して遼西中遼郡、太守を置く。

越海收東萊諸縣,置營州刺史。

海を越えて、青州の東萊郡諸県を収め、営州刺史を置く。

自立為遼東侯、平州牧,追封父延為建義侯。

自立して遼東侯、平州牧に為る。父・公孫延を建義侯に封じる。

立漢二祖廟,承制設壇墠於襄平城南,

 (編集中)

郊祀天地,籍田,治兵,乘鸞路,九旒,旄頭羽騎。

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太祖表度為武威將軍,封永寧鄉侯,

太祖(曹操)、上表して公孫度を武威将軍、永寧郷侯に封じる。

度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬武庫。

公孫度曰く「私は遼東王だ、何が永寧か!」印綬を、倉の武器庫に閉まった。

度死,子康嗣位,以永寧鄉侯封弟恭。

公孫度が死ぬと、子の公孫康が位を嗣ぎ、弟の公孫恭を永寧郷侯に封じた。

是歲建安九年也。

この歳、建安9年(204年)なり。

十二年,太祖征三郡烏丸,屠柳城。

建安12年(207年)、太祖(曹操)、三郡(右北平・遼西・遼東)の烏丸を征伐し、柳城を屠る。

袁尚等奔遼東,康斬送尚首。

袁尚ら遼東へ奔るも、公孫康に首を斬られて(曹操へ)送られる。

語在武紀。

このことは武帝紀にある。

封康襄平侯,拜左將軍。

公孫康は、襄平侯に封じられて、左将軍を拝命した。

康死,子晃、淵等皆小,衆立恭為遼東太守。

公孫康が死ぬと、子の公孫晃と公孫淵はまだ子どもで小さいので、衆(人々)は公孫恭を立てて遼東太守とした。

文帝踐阼,遣使即拜恭為車騎將軍、假節,封平郭侯;追贈康大司馬。

文帝(曹丕)、使者を遣わして、すぐに公孫恭を車騎将軍に拝命し、仮節、平郭侯に封じた。公孫康には、大司馬の官位を贈った。

けろりっちから見た、公孫氏の性格。

公孫度(こうそんたく)

 過激派。出世して、やりたいことやって亡くなった。野心家のように見えるけれども、皇帝は名乗らなかったし、印綬を武器庫に入れて「見なかったことにする」スタイルは、可愛げがあって良いと思います。

公孫康(こうそんこう)

 公孫度の息子。公孫恭の兄。野心はまぁまぁあったか?要領がいい人だと思った。

 白狼山の戦い後、袁尚と袁煕の首を曹操に送るのは、この人。

公孫恭(こうそんきょう)

 公孫度の息子。公孫康の弟。病気がち?常識人。

 大人になった公孫淵に追い出された人。ちょっとかわいそう。

公孫晃(こうそんこう)

 公孫康の息子で、公孫度の孫。公孫淵の兄。常識人。

 洛陽で働いている。父親に似たかも?

公孫淵(こうそんえん)

 公孫康の息子で、公孫度の孫。公孫晃の弟。過激派。

 祖父以上の過激派。野心が突き抜けた結果、司馬懿に殺られる。

柳毅(りゅうき)

 公孫度・公孫康の配下の将。

 青州東莱郡で、張遼(と何夔)に討伐される人。

陽儀(ようぎ)

 公孫度・公孫康の配下。何者かは分かりません。

参考にしたもの↓

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

2巻[魏書Ⅱ]公孫度伝

中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)

原文はコチラから【三國志 : 魏書八二 : 公孫度傳 - 中國哲學書電子化計劃】お借りしました!