けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

クーデターと『合肥侯国』

★中平5年(188年):張遼は20歳

兾州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯

 冀州刺史・王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らが豪傑と連結し、霊帝を廃位して、合肥侯を擁立する計画を立てる。

以告太祖,太祖拒之。

 曹操に打ち明けたが、曹操は参加を拒否した。

芬等遂敗。

 計画は失敗した。(武帝紀)

時王芬與豪傑謀廢靈帝。芬陰呼歆、洪共定計,洪欲行,歆止之曰:「夫廢立大事,伊、霍之所難。芬性踈而不武,此必無成,而禍將及族。子其無往!」洪從歆言而止。後芬果敗,洪乃服。

 華歆も声をかけられたが、無視した。王芬の計画は失敗した。(華歆伝)

★ 建安5年(200年):張遼は32歳

 未明:揚州の『合肥侯国』の名前を変更して『合肥県』とする。(情報源不明)


馥旣受命,單馬造合肥空城,建立州治,南懷緒等,皆安集之,貢獻相繼。數年中恩化大行,百姓樂其政,流民越江山而歸者以萬數。於是聚諸生,立學校,廣屯田,興治芍陂及茹陂、七門、吳塘諸堨以溉稻田,官民有畜。

 曹操、劉馥(りゅうふく)を揚州刺史に任命する。

 劉馥は、合肥城(揚州九江郡合肥)に入城した。合肥城は空城で荒れ果てていたが、州庁を置いて、雷緒らを手懐けて治安を安定させた。学校を作り、屯田に力を入れて内政を充実させた。河や山を越えて集まった流民で、人口は5桁を越えた。

又高為城壘,多積木石,編作草苫數千萬枚,益貯魚膏數千斛,為戰守備。

 城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積みあげ、草むしろ数千枚を編み、さらに魚の油数千石を貯蔵し、戦争の備えとした。(劉馥伝)

 

けろりっちは驚く

 いつも参考にさせていただいている三国志地図のサイト様の情報によりますと。

 合肥の元々の地名は『合肥侯国』

 廃止された後の地名『合肥県』については、見当たりませんでした。もちろん、年代ごとに、地名や地形が変わっていることもしっかり紹介してくださっているのですが。(けろりっちの探し方が悪いのかも)

 私は私で、合肥侯国という地名が廃止されていたことを、Twitterで知りまして。

 情報源を求めて探した結果、とりあえず下の画像2件がヒットしました。

f:id:keroritti1125:20200910005924j:plainf:id:keroritti1125:20200910005942j:plain

 日本で言う知○○的な掲示板の回答と、Wi○○○diaと似たようなサイト様に載っておりました。

 さらによく見ると、西晋武帝(司馬炎)太康元年(280年)に九江郡が淮南郡に変わって、淮南郡合肥県になってますね!

 へ~( ゚д゚)!

 情報源は探せばあるはずですが、けろりっちの探し方が悪いのか、探しきれませんでした、ごめんなさいm(_ _)m

けろりっちは、張遼を贔屓する者として、また一つ勉強になりました! 

 それにしても、恐ろしいですね。霊帝を廃位しようとするなんて。クーデターですよ!計画は失敗したわけですが、計画に参加した者たちはこの後どうなったんでしょうね?普通なら、一族は連座で処刑ですよね?合肥侯を立てる気でいたようですが、それもどうなったんですかね?


曹操は参加しなくて正解でしたね!


 って書きおわってから気付きました。南陽の許攸って、官渡の戦いの時に曹操に寝返った、あの許攸ですかね?だとしたら、うまく逃げ延びられたんですね。クーデター首謀者の一人である許攸を捕まえられなかったあたり、もうかなり漢王朝は弱ってますね。

 

以上、合肥の地名についてお話しでした。

 

 

参考にしたもの↓

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

1巻[魏書Ⅰ]武帝紀(曹操)

2巻[魏書Ⅱ]華歆伝

1巻[魏書Ⅲ]劉馥伝

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原文はコチラから

武帝紀(曹操)三國志 : 魏書一 : 武帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

華歆傅三國志 : 魏書十三 : 華歆傳 - 中國哲學書電子化計劃

劉馥傅【三國志 : 魏書十五 : 劉馥傳 - 中國哲學書電子化計劃

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