E:建安20年(215年)合肥の戦い 2
曹魏は青、孫呉は赤です。
☆中平5年(188年):27年前、張遼は20歳
冀州の刺史・王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らが豪傑と連合を組み、霊帝を廃位して合肥侯に擁立する計画を立てて、曹操に打ち明けた。曹操は参加を拒否した。華歆も声をかけられたが、無視した。
計画は失敗した。
☆ 建安5年(200年):15年前、張遼は32歳
揚州の『合肥侯国』の名前を変更して『合肥県』とする。
曹操、劉馥(りゅうふく)を揚州の刺史に任命する。
劉馥は、合肥城(揚州九江郡合肥県)に入城した。合肥城は空城で荒れ果てていたが、州庁を置いて、雷緒らを手懐けて治安を安定させた。学校を作り、屯田に力を入れて、内政を充実させた。河や山を越えて集まった流民で、人口は5桁を越えた。
城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積みあげ、草むしろ数千枚を編み、さらに魚の油数千石を貯蔵し、戦争の備えとした。
(曹操と劉馥による、合肥城軍事要塞都市化計画ですね。)
☆建安13年(208年):7年前、張遼は40歳
揚州刺史で、合肥城を整備した劉馥が亡くなった。
孫権が10万の軍勢を引き連れて、合肥城を100余日にわたって攻撃包囲したが、陥せず、引き上げた。
曹操、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を別駕に任命した。
(任命時期は不明ですが、けろりっちはこの時期にしました。)
12月:(赤壁の戦いが終わった直後)
孫権が劉備に味方して、みずから大軍をひきいて、合肥を包囲した。
曹操の軍勢は荊州の劉備を征討していたが、疫病の流行にあった。そのため、将軍の張喜に単身1,000騎をひきいさせ、豫州汝南を通過の際に兵を集めて、包囲を解かせようとしたが、やはりかなりの兵が疫病にかかった。
蒋済は偽った。
『”歩兵・騎兵4万がすぐそこまで来てますよ”っと書いてある張喜からの手紙をもらったので、刺史に届けてちょうだい』
3組の使者に手紙を持たせて放った。
1組は無事に、刺史に渡せた。
残り2組は賊(孫権)に捕まった。孫権は手紙の内容を信用して、急遽、包囲した陣営を焼き払って軍を引き上げた。
孫権の包囲は一ヶ月以上続いたが、合肥城は無事だった。
☆建安19年(214年):1年前、張遼は46歳
5月:孫権が揚州の皖城を攻めた。
張遼、皖城を救援するため夾石まで来ていたが、落城したと知って、軍をめぐらせた。
秋7月:曹操は孫権を征討した。参軍の傅幹が諌めたが、曹操は聞かなかった。結局、戦果はふるわず、戦功はなかった。
曹操、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を別駕に任命した。
張遼・楽進・李典を、兵7,000人とともに合肥に駐屯させた。
曹操、張遼と楽進に「揚州刺史の温恢は軍事に通達している。いっしょに相談して行動せよ。」と言った。
曹操、箱に命令書を入れて、護軍の薛悌に与えた。
箱のふちに「賊が来れば開け」と記しておいた。
☆建安20年(215年):現在、張遼は47歳
孫権襲来
孫権が10万の兵を率いて、合肥を包囲した。
さっそく、皆でいっしょに命令書を開けてみた。
曹操からの命令書「もし孫権が来れば、張将軍と李将軍は出撃、楽将軍は護軍(薛悌)を守り、戦わないように。」
(張将軍→張遼、李将軍→李典、楽将軍→楽進)
張遼は、命令を奉じ、城を出て戦おうと思った。
しかし、諸将は、この指示を疑った。加えて、張遼・楽進・李典の三人は、平素から仲がよくなかった。
張遼は、楽進と李典が自分に従わないのでは、と恐れた。(懸念した)
李典は憤然として言った「これは国家の大事、問題は君の計略がどうか、ということですぞ。我々は個人的な恨みで、公の道義を忘れたりしません!」
張遼「公(曹操)は遠征(張魯征伐)で外におられる。救援が来る頃には、彼ら(孫権)は我らを破っているはずだ。したがって、まず奴らの攻撃の準備ができないうちに撃って出て、その勢いを折り、人々の心を落ち着かせて、その後、守れと指示されたのだ。 成功失敗のきっかけはこの一戦にかかっている。諸君は何を疑うのだ?」
李典もまた、張遼に賛成した。
そこで張遼は、夜間に兵を募集したところ、従う勇気のある兵士800人を得て、牛を稚で殺し、将兵を労い、翌日大いに戦うことにした。
奇襲 張遼・李典と800人の決死隊
平旦(明け方)、張遼は鎧を被って戟を持ち、先頭に立って、勇士歩兵800人(と李典)を率いて、孫権の陣に奇襲をかけた。
陣を陥とし、
数十人を斬り、
将二人(陳武と他1名)を斬り、
自分の名前を大声で呼び、
孫権の麾下に至る。
呉の諸将には備えがなく、陳武は戦って死んだ。
孫権は驚いて、人々はどうしたらいいのか分からなかった。(パニックになった)
孫権は、高い塚に走って登り、長い戟を持って自身を守った。
張遼は「下りて戦え!」と怒鳴ったが、孫権はあえて動こうとせず、張遼の率いる将兵が少ないことを望見し、張遼を幾重に囲んだ。
徐盛が負傷した。徐盛が負傷したことで、牙旗(がき)(将軍の旗さしもの)を失った。
賀斉は、兵を指揮して防いで戦い、徐盛が失った旗を奪い返した。
宋謙、徐盛の軍勢は皆逃げ出した。
潘璋は後方にいたのであるが、急いで駆けつけてみると、馬を横にして宋謙や徐盛配下の逃げようとしている兵士二人を斬った。これを見た兵士たちは、みな取って返して戦った。
張遼は左右に包囲されたが、真っ直ぐに進み撃って出て、囲いを開く。
張遼は麾下数十人と脱出できた。
包囲の中に取り残された兵たちが叫んで言った「将軍!我を棄てるか!」
張遼、戻って包囲を突破して、取り残された兵を救出する。
孫権の兵馬は皆、道を開け、思い切ってぶつかる者はいなかった。
明け方から戦って、真昼になった。
呉の人々は、戦意を失った。
張遼は合肥城に引き帰して、守備を固めた。
(合肥の)人々の心は安心し、諸将は感服した。
追撃戦 逍遥津の死闘
孫権は、合肥を10日間包囲したが、城を落とすことができない。
また、伝染病が流行した。
孫権は、退却の命令を出した。
軍団は皆引き上げて、ただ(孫権が乗る)お召車に扈従する谷利、近衛兵1000余人と、軍楽隊、呂蒙・蒋欽・凌統(と近習300人)・甘寧とが、孫権につき従って、逍遥津の北にあった。
張遼は、そうした様子を、遠くから窺っていた。
孫権軍全兵力のうち、ほぼ全軍が引き上げたことを確認した。
張遼は、すぐさま歩兵と騎兵を合わせた諸軍を率いて、追撃を開始した。
孫権は、お召車から駿馬に乗り換えた。
また、人を使いにやって、出発した兵士たちを戻らせようとしたが、兵士たちはすでに遠くまで行ってしまっていて、間に合いそうになかった。
呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧らは、命がけで戦った。
甘寧は、弓を手に持って敵に射かけ、茫然自失している軍楽隊に大声で「なぜ音楽を鳴らさぬのか!」と叱りつけた。その雄々しさは、何者も犯せぬようであった。
凌統は、近習の者たち300人を指揮して包囲を崩し、孫権を守りつつ脱出させた。
凌統らが死に物狂いで防戦している間に、孫権が駿馬に乗って、逍遥津の橋を渡っていったところ、橋の南端はすでに壊され、一丈余りにわたって板がなかった。
谷利が馬の後ろに従っていたが
谷利「鞍(くら)をしっかり持って、控(手縄)を緩めるように」
と、孫権に言った。
谷利が後ろから、馬に鞭を当てた。馬に勢いがついたので、壊れた橋を飛び越すことができた。
凌統は、ふたたび戻って戦いに加わった。側近の者は皆死に、自身も怪我をしていたが、数十人の敵を殺した。
賀斉が、大きな軍船に3,000人の兵を乗せて、逍遥津の南に来た。
(橋を渡って難を逃れた)孫権を迎え入れて、軍船に乗せた。
凌統、孫権がすでに難を逃れて安全な場所についた時分を見計らってから、退却をした。橋が壊れて退路がないので、凌統は鎧をつけたまま、水中を潜って川を渡った。
(呂蒙・甘寧・蒋欽も、凌統と同じように川に飛び込んで、退却(川を渡った)したと思われます。)
孫呉 退却後
孫権は、すでに船に乗っていた。
凌統が帰ってきたのを見ると、歓喜した。
凌統は傷が酷く、孫権は、そのまま彼を御座船の中に留めて、その衣服をすべて替えさせた。
凌統は、近習の者たちが誰も戻って来ないことを痛み、悲しみに沈んでいた。孫権は、みずからの袖で涙を拭いてやると、言った。
孫権「公績どの、死んだ者は帰ってはこない。あなたさえ健在ならば、これまでに他に有能な人物がいないなどと、どうして心配したりしよう。」
彼の傷は、卓氏の良薬の効き目で快方に向かい、死なずにすんだ。
(しかし、後遺症が残ったのか、前線に立てなくなったようです。)
孫権、部将たちを集めて酒宴を開いた。
賀斉は、敷物をはずすと、涙を流しながらいった。
賀斉「至尊の位にあられるご主君には、つねに万全のご行動をとっていただかねばなりません。今日の出来事は、ご生命にもかかわりかねないもので、臣下たちは怖れに心をおののかせ、天も地も失ってしまったかのようでございました。どうかこの事件を、一生の戒めとしていただきますように。」
孫権は進み出て、賀斉の涙を拭いてやりながら言った。
孫権「まったく恥ずかしい次第だ。この戒めを、単に帯に書きつけるだけでなく、深く心にも刻みつけよう。」
孫権、陳武の葬儀に臨席した。孫権が命令を出して、陳武の愛妾を殉死させた。
凌統が死ぬと、孫権は、凌統の遺児を引き取り、慈しんで養育した。
曹魏 防衛に成功
曹操は、張遼を勇敢だとたいそう感心し、征東将軍に任命した。
楽進は右将軍に昇進した。
李典は100戸を加増され、前と合わせて300戸となった。
☆建安21年(216年):1年後、張遼は48歳
曹操、合肥に到着すると、張遼の戦った場所をめぐり歩き、長い間感歎した。
☆建安22年(217年):2年後、張遼は49歳
曹操は居巣に陣を張り、孫権は濡須口で曹操を迎え撃った。
孫権、曹操に降伏した。
☆建安24年(219年):4年後、張遼は51歳
孫権、合肥を攻撃する。
(張遼は居巣にいて合肥にはいませんでしたが、ちょっとした小競り合いだったのかも?)
☆延康元年(220年):5年後、張遼は52歳
前将軍に転任になり、合肥を離れた。
(孫権が臣下の礼をとっていたため、合肥を守る必要がなくなっため)
☆魏:黄初2年(221年):6年後、張遼は53歳
6~7月?:孫権が反逆した?
曹丕、張遼を合肥に帰して駐屯させ、都郷侯に昇進させた。
秋8月:孫権がふたたび、藩国の礼をとった。于禁を返却した。
未明:張遼、合肥から兗州陳留郡雍丘に駐屯した。
☆魏:黄初3年(222年):7年後、張遼は54歳
孫権がふたたび反逆した。
曹丕は、許昌から南方征討へ向かい、諸軍の兵はいっせいに進撃した。
孫権は大変、張遼を恐れて、諸将に『張遼は病気だとはいえ、敵対してはいかんぞ。気をつけろよ』と命じた。
張遼の病気は重くなり、そのまま江都で逝去した。54歳。
曹丕は、張遼のために涙を流した。
☆魏:黄初6年(225年):10年後、張遼の死後3年後
曹丕は、張遼・李典の合肥における戦功を思い起こし、詔勅を下した。
合肥の戦役に、張遼・李典は歩兵800をもって賊10万を撃破した。
古代よりの戦争を考えるに、このようなことはかつてなかった。
現在にいたるまで賊の戦意を失わせており、国家の爪牙ともいうべき臣である。
よって張遼・李典の領地それぞれ百戸を分割して、一子に関内侯の爵位を授ける。
張遼亡き後の合肥は満寵が引き継ぎ、孫権をまったく寄せ付けませんでした。
孫権は、最後まで、合肥を抜くことができませんでした。
参考にしたもの↓
ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)
1巻[魏書Ⅰ]武帝紀(曹操)、文帝紀(曹丕)
2巻[魏書Ⅱ]華歆伝
3巻[魏書Ⅲ]蒋済伝、劉馥伝、温恢伝、張遼伝、楽進伝、李典伝
4巻[魏書Ⅳ]満寵伝
6巻[呉書Ⅵ]呉主伝(孫権、谷利)
7巻[呉書Ⅶ]呂蒙伝、陳武伝、蒋欽伝、甘寧伝、凌統伝、潘璋伝(徐盛・栄謙)、賀斉伝(徐盛)
正史三国志英傑伝(徳間書店)
Ⅰ起つ[魏書【上】]張遼伝、李典伝
中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
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