護軍とは???
夏侯尚傳 魏略曰:
夏侯尚伝 魏略にいう:
玄旣遷,司馬景王代為護軍。
夏侯玄が栄転した後、司馬景王(司馬師)が代わって護軍となった。
護軍總統諸將,任主武官選舉,
護軍というのは、諸将を取り締まり、武官の登用を司る任務である。
前後當此官者,不能止貨賂。
代々この官についた者は、みな賄賂を取るのが常だった。
故蔣濟為護軍時,
だから、蒋済が護軍だったときに、
有謠言「欲求牙門,當得千匹;百人督,五百匹」。
『牙門(がもん)になりたかったら、千匹の絹。100人督(小隊長)なら、500匹』
というはやり歌があった。
宣王與濟善,聞以問濟,濟無以解之,
司馬宣王(司馬懿)は蒋済と親しかったので、雑談の席で蒋済に訪ねると、蒋済は弁解のしようがなかった。
因戲曰:「洛中市買,一錢不足則不行。」遂相對歡笑。
そこで、司馬宣王(司馬懿)はからかって「洛中での買い物は、一銭足りなければだめか」といい、向かい合って大笑いした。
玄代濟,故不能止絕人事。
夏侯玄は蒋済と交替したのだが、このため、つけ届けをやめさせることができなかった。
及景王之代玄,整頓法令,人莫犯者。
司馬景王(司馬師)が夏侯玄と交替するに及んで、法令を整備したため、違反する者はいなくなった。
けろりっちは呟く。
賄賂が横行していた。
1.将軍のお目付け役として、将軍の働きを監視して報告する。
2.諸将をまとめて、仲を取り持って仲良くさせたり?(趙儼とか)
3.曹操から受けた指示や作戦を諸将に伝えたりとか?(薛悌とか)
4.曹操が柳城を討伐しようとしたとき、領軍の史渙は、護軍の韓浩と協力して諌めようと考えていた。
韓浩「(省略)私とあなたとは中軍の指導者なのだから、ここで兵隊たちの気勢いを挫くべきではないぞ」(夏侯惇伝 魏書:韓浩、史渙)
5.戦に負けたりして将軍が降伏したら、護軍もいっしょに捕虜になったり、最悪処刑される。(于禁といっしょに捕虜になった浩周とか)
6.一人の将軍に一人つくこともあれば、複数人の将軍を一人で統括することもある。
7.護軍は、指名制???将軍が自由に決められた?(胡質とか)(武周とか)
1~7の以上が、けろりっちの『護軍』に関する認識です。
4の韓浩と史渙の話は、1~3を含めてるかな???
1が賄賂を取っていた理由かしら。
戦場では命がけですから、大変な任務だと思います。
仲が悪い将軍たちをまとめるのも、大変そうです(-_-;)
でも、やっぱり賄賂の件は(´・ω・`)ウーンという気持ちです。
(もちろん、全員が全員、賄賂を取っていたわけではないはず!)
でもね!ここで気をつけないといけないことは!
賄賂を取っていたからといって、決して私腹を肥やしていたのではない!
なぜなら、この時代の優秀な人たちは、報酬や宝物をもらったら、親族や部下に分け与えていたからです。場合によっては、反乱を抑えるために賊にもあげていたかもしれません。
ですので、賄賂を取っていた=ズルをしていた
ではないと、けろりっちは考えます!考えたいです!
まぁでも法を整備したら違反する者がいなくなったということは、やっぱり悪いことだったんですよね。(^^;)
(賄賂自体は、他の官職も蔓延ってたとは思いますので、気にしたらダメなことは分かりますが)
とりあえずですね、『護軍』については、深く考えるのはやめました。
考察するにも知識が追いついていないけろりっちは、書いてあることをそのまま知識として覚えるのみです。
また、あんまり考えすぎると、知恵熱ならぬ知恵頭痛が出て1日動けなくなるので(~_~;)
ところで、7ですが。
護軍って、一人につき一人付く場合は、指名制だったのかな?将軍が自由に決められたんですかね???
張遼、温恢に『胡質をください』胡質に『どうして逃げるの?』って言ってるし。
お目付け役なのに、指名OK???
へ~( ゚д゚)???
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
7について書いた記事です、よかったら読んでみてね!『護軍』にまつわる張遼のエピソードです→【素直に謝罪して仲直り】
参考にしたもの↓
ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)
2巻[魏書Ⅱ]夏侯惇伝(魏書:韓浩、史渙 143P)、夏侯玄伝(魏略 214P)
中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)
【三國志 : 魏書九 : 夏侯尚傳 - 中國哲學書電子化計劃】