けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

D:南征

【建安13年(208年)〜建安18年(213年)】

後漢:建安13年(208年):40歳

春正月:孫権、黄祖を攻めた。
 周瑜、呂蒙、周泰、凌統、董襲が精鋭をすべて投入して攻め立てたため、黄祖の城は落ちた。黄祖は身一つで逃亡したが、騎兵の馮則(ふうそく)が黄祖の首を斬り、晒し者とした。黄祖の配下男女数万人を捕虜とした。 (呉主伝 77P)
 他に、黄祖征伐の記録があった人
(呂蒙伝 88P)
(周泰伝 122P)
(董襲伝 130~131P)
(凌統伝 143P)
 甘寧。黄祖配下のときに凌操を射殺している。3年いたらしい。(甘寧伝)

 黄祖が亡くなった後は、劉琦が江夏太守になった。(劉表伝)(諸葛亮伝)

 曹操、鄴に帰還し、玄武池を作って水軍の訓練をした。(武帝紀)

夏6月:曹操、丞相に任命される。(武帝紀)

 未明:揚州刺史で、合肥城を整備した劉馥が亡くなる。
 孫権が10万の軍勢を引き連れて、合肥城を100余日にわたって攻撃包囲したが陥せず、引き上げた。(劉馥伝)

秋7月:劉表征討のため、南方へ赴いた。(武帝紀)

 当時、荊州はまだ平定されていなかったので、またも張遼を派遣して長社に駐屯させた。出発に際して、軍中に反乱を計画した者があって、夜間騒ぎ立てて火を放ったので、軍全体が混乱した。
 張遼は「軍中に反乱と関係ない者は落ち着いて座っていよ」と命令した。そして親衛兵数十人をひきい、陣営の真ん中につったって、しばらくして落ち着くと、すぐに首謀者を捕まえて彼を殺した。(張遼伝)
 曹操は、張遼を長社に、楽進を陽翟(ようてき)、于禁を潁陰(えいいん)に派遣し駐屯させたが、この3人は協調しないことが多かった。
そこで、趙儼に3人の参軍を兼ねさせたうえ、仲を取り持たせて、事あるごとに教えさとした結果、3人は互いに親しむようになった。(趙儼伝)

 8月:劉表が死去、子の劉琮が後を継いだ。劉琮が襄陽に駐屯し、劉備は樊城に駐屯した。

 9月:曹操が荊州に侵攻し、南陽郡新野県に到達すると、劉琮は領民を挙げて降伏した。劉備は劉琦がいる江夏郡の夏口に逃げた。(武帝紀)(劉表伝)
曹操、布告を出し、15人を列侯に取り立てた。
文聘を江夏太守とする。(武帝紀)
劉琮を、青州の刺史に任命して、列侯に取り立てた。
蒯越、韓崇、鄧義、劉先、その他の者も多く高位高官に登った。(劉表伝)

 曹操は、趙儼を都督護軍に任命して、于禁・張遼・楽進・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の七軍を統括させた。(趙儼伝)

10月:赤壁の戦い→劉備軍・孫権軍の勝利。

 曹操、軍を引き上げて帰還した。

 劉備は、荊州管下の江南の諸郡を支配することとなった。(武帝紀)

 曹操、曹仁・徐晃を江陵に駐屯させた。楽進に襄陽を守らせた。

 呉の将・周瑜が、数万の軍勢をひきいて江陵に来攻した。曹仁が迎え撃つ。

 楽進、関羽・蘇非らを攻撃して撃退した。

12月: 孫権が劉備に味方して、みずから大軍をひきいて、合肥を包囲した。
 曹操の軍勢は荊州の劉備を征討していたが、疫病の流行にあった。そのため、将軍の張喜に単身1000騎をひきいさせ、汝南を通過の際に兵を集めて、包囲を解かせようとしたが、やはりかなりの兵が疫病にかかった。
 蒋済は偽った。
『 ”歩兵・騎兵4万がすぐそこまで来てますよ”っと書いてある張喜からの手紙をもらったので、刺史に届けてちょうだい。』
3組の使者に手紙を持たせて放った。
1組は無事に刺史に渡せた。
残り2組は賊(孫権)に捕まった。孫権は手紙の内容を信用して、急遽包囲した陣営を焼き払って軍を引き上げた。
 合肥城は無事だった。
 孫権の包囲は一ヶ月以上続いていた。(武帝紀)(呉主伝)(蒋済伝)

後漢:建安14年(209年):41歳

春3月:軍は豫州沛国譙県に到着した。軽快な船を作って水軍を訓練した。(武帝紀)

秋7月:曹操、合肥に陣どった。(特に戦の記録は無し)(武帝紀)

 未明:周瑜と曹仁とが江陵で対峙することが1年を越え、その間に死傷した者は多数にのぼった。
 最終的に曹仁は江陵城を棄てたが、周瑜を負傷させた。

 未明:曹操、揚州廬江郡の反乱者・雷緒を夏侯淵に攻撃させた。(夏侯淵伝)

 未明:陳蘭と梅成が反乱を起こした。
于禁・臧覇、張遼・張郃・牛蓋が対応し、鎮圧した。
D:建安14年(209年)陳蘭と梅成の乱 ←長くなったので記事を分けました。
 曹操、張遼に節を与える。

 12月:(曹操の)軍は、豫州沛国譙県に帰還した。(武帝紀)

後漢:建安15年(210年):42歳

春正月:曹操、布告を出した。(省略)

 冬:銅雀台を築いた。

後漢:建安16年(211年):43歳

春正月:天子(献帝)、曹操の世継ぎである曹丕を五官中郎将任命し、属官を設けて丞相補佐とした。

 未明:并州太原郡の商曜らが大稜県で反逆したので、夏侯淵・徐晃に撃破させた。(武帝紀)(夏侯淵伝)

 3月:張魯が関中を占拠した。鍾繇を派遣して張魯を討伐させた。曹操、夏侯淵らに河東を出て鍾繇と合流するように命じた。

 未明:馬超が反乱を起こした。そのため、曹操は曹仁を派遣して馬超を討伐させた。馬超は、潼関に陣取った。(武帝紀)

秋7月:曹操、西方征伐に向かい、馬超らと対峙した。

冬10月:軍は長安から北に向かい、楊秋を征討し、涼州安定郡を包囲した。

 12月:楊秋が降伏したので、夏侯淵を長安に駐屯させて曹操は軍を引き上げた。(武帝紀)

後漢:建安17年(212年):44歳

春正月:曹操、ぎょうに帰還した。

 曹操、前漢の功臣・簫何の旧例にならい、天子(献帝)より特権を許される。

 未明:韓遂・馬超の残党の梁興らが司隷京兆尹藍田県に駐屯していたので、夏侯淵に討ち平らげさせた。(武帝紀)(夏侯淵伝)

冬10月:曹操、孫権を征討した。(武帝紀)

 臧覇、孫権軍が守る居巣を撃破した。(臧覇伝)

孫権、劉備に救援を要請する。劉備は孫権を救援するため兵を借りようと劉璋に相談したが、いろいろあって劉璋と不仲になった。

関羽は、荊州の青泥で楽進と睨み合い中。(先主伝)

後漢:建安18年(213年):45歳

春正月:曹操、軍を濡須口に進め、孫権の都督・公孫陽を捕虜としてから、軍を率いて帰還した。

夏4月:ぎょうに帰還した。

 5月:曹操、魏王になる。 

 未明:馬超が、冀県にいる涼州刺史の韋康を包囲した。曹操は、夏侯淵を救援に向かわせたが、間に合わず韋康は殺害された。夏侯淵軍は馬超軍と戦闘になったが、負け戦となり、さらに馬超に呼応して氐族が反乱を起したため、夏侯淵は軍勢を引き上げた。(武帝紀)(夏侯淵伝)(馬超伝)

 

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