けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

C:建安12年(207年)白狼山の戦い

建安12年(207年):39

 袁尚(と袁煕)に味方する(漁陽郡・右北平郡・雁門郡の)鳥丸を征伐するため、田疇に道案内をしてもらい、柳城へ向かう。【白狼山の戦い】

鳥丸征伐に参加したメンバー

曹操:袁紹の息子である袁尚を討ち、袁家を支援しようとする北の勢力を平定したい。

郭嘉:袁尚を討つのは今しかない!南征より、まず北を平定すべし!

田疇(でんちゅう) 幽州右北平(ゆうほくへい)郡無終(むしゅう)県の人。過去に、右北平郡の高官多数を鳥丸に殺害されたことがあり、鳥丸を恨んでいる。また、袁紹・尚親子から招かれるも、出仕を拒否した。今回の鳥丸征伐では、道案内を担当する。

邢顒(けいぎょう)田疇とお友だち。曹操に、先導となって柳城に撃ち勝つことを願い出た。 

牽招(けんしょう)袁紹→袁尚と親子に仕えた後、いろいろあって曹操に投降した。鳥丸に詳しい。なかなか苛烈な性格。

韓浩(かんこう) 護軍。

史渙(しかん)護軍。今回の鳥丸征伐に反対しようとしていたが、韓浩に説得されて思いとどまる。

曹純:曹仁の弟。精鋭騎兵「虎豹騎」を率いる。

張遼:(傅子の言うことが本当であれば)今回の鳥丸征伐に反対していた。

張郃、徐晃、張繍

董昭:お留守番。平慮・漁陽郡泉州県の二運河を堀り、海に輸送路を作るよう曹操に建策した。 

 

夏5月:幽州右北平郡無終県まで軍を進める。

秋7月:大水(洪水)が発生して、海沿いの道が通れなくなった。

    田疇が道案内をすることになり、曹操は田疇に従った。

田疇「(省略)敵は、だらけて油断しています。ひっそりと軍を転じて、廬龍の入り口から白檀の険を超えると道が近くなり便利です。鳥丸の不意を襲えば、蹋頓の首は戦わずして我がものにできましょう」

郭嘉「兵は神速を尊びます。輜重車を置いて、兵の装備を軽くして、普通の倍の速度で出撃させて、鳥丸の不意を突く方がよいです」

 曹操は、そこで「夏の盛りで道が不通なので、秋冬にまた来ます。」と大きな立て札を作って、洪水で通れなくなった道に立てた。敵軍の斥候の騎兵が立て札を見て、信じた。

 曹操は、こっそりと廬龍塞を出て、まっすぐに東の柳城を目指した。

(行軍中の大変さは省きます)

 柳城より200里手前で、敵軍は曹操の軍が来ていることに気づき、慌てた。

 袁尚・袁煕が、蹋頓、遼西・右北平の単于らとともに数万の騎兵隊を率いて、曹操軍を迎え撃つ。

 8月白狼山に登ったところで、突然敵と遭遇した。

 敵の軍勢は、甚だ盛んである。

 曹操の輜重車は後方におり、鎧を着ている者が少なく軽装だったので、左右周りの者は皆、恐怖した。

 曹操は高い所に登り、敵陣が整っていないことを確認する。

 張遼は曹操に戦いをすすめ、意気盛んであった。曹操はそれを見事と感じ、全権委任の指揮の旗をみずから張遼に授けた。

 張遼・張郃を先鋒として、敵を攻撃した。大いに敵兵を斬り殺し、捕虜にし、逃亡する者を追いかけて、柳城まで達した。

 曹純の虎豹騎が、蹋頓を生捕りにした。

 曹操、蹋頓と名王(大部族の王)以下の指導者を処刑した。

 蛮族・漢族の降伏者は20余万人にのぼった。

 袁尚・袁煕は遼東に逃走した。

 遼東の公孫康は、逃げてきた袁尚・袁煕を斬り殺し、首を曹操のもとへ送った。

 曹操、牽招を護鳥丸校尉に任命する。

 

 9月:曹操、兵を引き、柳城より還る。

(帰還中の行軍の険しさは省略します)

 張繍、鄴への帰還中に死亡。

 

 11月:易水(幽州涿郡故安県内にある川)に至る。

 幽州代郡の鳥丸行単于の普富盧(ふふろ)、幽州上郡の鳥丸行単于の那楼(なろう)が、配下の名王を引き連れて祝賀に来た。

 

 鄴に帰還する。

 郭嘉、死去。

 遼東から袁尚の首が届いたので、その首を晒した。

 牽招、袁尚の首を見て悲しくなり、首の下で祭司を設けた。曹操は、それを義気ある行為として、評価した。

 田疇、袁尚の首を弔い祭ったが、曹操は問題にしなかった。

 田疇は、家族と召使い、一族300余軒全部を引き連れて鄴に住んだ。

(曹操は、車・馬・穀物・絹を下賜したが、田疇は親族友人に分けた)

 

以下、恩賞振り分け

 田疇は、食邑五百戸の亭侯にとりたてられるも、固く辞退した。

 邢顒は、冀州の従事とされた。

 牽招は、茂才(秀才)とした。

 韓浩・史渙は、中護軍に改められ、配下に長史・司馬を設置された。

 曹純は、高陵亭族に封じられ、三百戸を与えられた。

 張郃は、平狄(へいてき)将軍に昇進した。

 徐晃は、横野(おうや)将軍に任命された。

 公孫康は、襄平侯にとりたてられ、左将軍に任命された。

 董昭は、千秋亭侯にとりたて、司空軍祭酒に任命された。(郭嘉の後任?)

 曹操、鳥丸征伐を諫めた(反対した)者に恩賞を与える。

 

 

 けろりっちは気になる。

みんな、それぞれ昇進したり恩賞をもらってるのに。

張遼の名前がありません。なぜでしょう?(゚A゚;)?

張遼伝にあった、傅子の言うことが本当であれば。

今回の鳥丸征伐に反対した者として、なにかしら恩賞をもらってると思いたいです。(;^ω^)

 

 

 

 

参考にしたもの↓

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

1巻[魏書Ⅰ]武帝紀(曹操)

2巻[魏書Ⅱ]公孫度伝、張繡伝、夏侯惇伝(韓浩・史渙伝)、曹純伝、田疇伝、邢顒伝

巻[魏書Ⅲ]郭嘉伝、董昭伝、張遼伝、張郃伝、徐晃伝

4巻[魏書Ⅳ]牽招伝、鳥丸伝

正史三国志英傑伝(徳間書店)

Ⅰ起つ[魏書【上】]武帝紀(曹操)

Ⅱ成る[魏書【下】]張遼伝、郭嘉伝

 

C:北伐 ←【C:北伐】の記事に戻る。【D:南征】に進む。→D:南征