けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

B:官渡の戦い

【建安4年(199年)〜建安9年(204年)】

後漢:建安4年(199年):31歳

春2月:曹操は、徐州の下邳から、兗州山陽郡昌邑県まで帰った。
 張楊が、部下の楊醜に殺された。
 張楊を殺害した楊醜は、曹操に味方しようとするも、眭固に殺された。
眭固は、張楊の軍勢をもって袁紹の配下に入り、射犬に駐屯した。
夏4月:曹操は、軍を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁・于禁・徐晃・楽進に、眭固を攻撃させた。
 眭固は惨殺された。眭固が率いていた張楊の軍勢は、曹操に併合された。
 張楊の長史・薛洪(せつこう)と河内の太守・繆尚(きゅうしょう)は、城を固守して袁紹の救援を待っていた。
 曹操は、生前の張楊と交流があった董昭に命じて、単身で城に入らせて、薛洪・繆尚を説得させた。彼らは即日、軍勢をあげて降伏した。(武帝紀)(張楊伝)(董昭伝)(曹仁伝)(楽進伝)(于禁伝)(徐晃伝)

秋8月:曹操は、冀州魏郡の黎陽(れいよう)に軍を進める。
 臧覇、青州に侵入して斉・北海・東安を打ち破った。
 于禁を黄河の河岸に駐屯させた。

 9月:曹操、許に帰還したが、兵を分けて官渡を守らせた。

冬11月:張繡と賈詡が、軍勢を引き連れて降伏した。

 12月:曹操は官渡に戻って陣取った。(武帝紀)

未明:孫策、詔勅により、袁術と劉表を攻めることになった。(孫策伝)
 青州の袁譚が、使者を派遣して袁術を迎えに行かせた。袁術は、下邳を経由して北方に向かう予定だったが、劉備と朱霊に阻まれた。
 袁術、死亡。(武帝紀)
 孫策、いろいろあって、劉勲と組んだ黄祖と交戦した。(孫策伝 52〜53P)
劉勲を尋陽に討伐し、さらに軍を進めて、黄祖を沙羨(さい)に攻めた。(程普伝 111P)
尋陽の劉勲を討ち、江夏の黄祖を攻めた。(董襲伝 130P)
劉勲が、軍勢を連れて曹操に降伏した。

 劉備、徐州刺史の車冑を殺して、徐州を乗っ取った。(武帝紀)

後漢:建安5年(200年):32歳

 未明:揚州の『合肥侯国』の名前を変更して『合肥県』とする。(情報源は不明)

 未明:曹操、劉馥(りゅうふく)を揚州刺史に任命する。
 劉馥は、合肥城(揚州九江郡合肥)に入城した。合肥城は空城で荒れ果てていたが、州庁を置いて、雷緒らを手懐けて治安を安定させた。学校を作り、屯田に力を入れて内政を充実させた。河や山を越えて集まった流民で、人口は5桁を越えた。
 城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積みあげ、草むしろ数千枚を編み、さらに魚の油数千石を貯蔵し、戦争の備えとした。(劉馥伝)

 未明:曹操、徐州の劉備を征伐した。劉備は袁紹のもとへ逃走した。
 劉備の味方をして反乱を起こした、徐州東海の昌豨を平定する。
 下邳にいた関羽を捕虜にして連れ帰り、偏将軍に任命して、大変手厚く礼遇した。

夏4月:兗州東群白馬県にいる東郡太守・劉延が袁紹軍に包囲された。

 曹操は、張遼・関羽を先鋒とし、袁紹軍を攻撃した。
 関羽は、大軍の真っ只中で顔良を刺し、首を斬りとって帰ってきた。
袁紹軍の中に関羽に敵うものはおらず、白馬の包囲は解かれた。
白馬から西に寄って、劉備含めた文醜軍と戦闘になったが、撃破して文醜を斬った。(武帝紀)
 劉備が袁紹軍にいることが分かった関羽は、劉備のもとに向かった。(武帝紀)(先主伝)(関羽伝)
 曹操・関羽・張遼の詳しいやりとりはコチラ→→→3:白馬の戦い -

4月4日:孫策、死亡。

 8月:曹操軍vs袁紹軍→袁紹軍の勝ち。
 袁紹、さらに軍を進めて官渡に臨み、陣を築いた。袁紹は、曹操の陣営内に大量の矢を射込み、大雨のように注いだ。人々は恐れ、また兵糧も少なくなっていたので、曹操は、荀彧に『許に帰りたい』と手紙を書いた。荀彧は、曹操を励ました。

 未明:豫州汝南郡で、賊将・劉辟らが反逆して袁紹に味方した。袁紹は、劉備を派遣して劉辟を援助させ、豫州汝南郡㶏彊(いんきょう)の諸県を攻め落とさせたところ、多くの県が挙兵してこれに応じた。
 このため、許以南の官民は動揺し、曹操はそれを憂慮した。曹仁に励まされた曹操は、曹仁に劉備を撃破させた。また、反旗を翻した諸県をすべて取り戻してから、帰還した。(曹仁伝)

 未明:曹仁・徐晃・史渙、荀攸の策により、袁紹の穀物輸送車数千台を焼きはらった。
 曹操は袁紹と数ヶ月にわたり、連戦し、将を斬ったが、軍勢は少なく糧食はつき、士卒は疲弊していた。
 曹操、輜重隊を励ます。

冬10月:袁紹の謀臣・許攸が投降してきた。許攸を信じて、淳于瓊が護る烏巣の兵糧庫を急襲した。
 曹操は淳于瓊らを撃破し、捕らえて鼻を削いで処刑した。
 張郃と高覧が曹操に投降した。曹操は喜んだ。
 袁紹の軍勢は総崩れとなり、袁紹と袁譚は逃走した。(武帝紀)

 未明: 劉備が曹操に叛いてから、東南(青州・徐州・豫州・荊州など)方面で事変が多かった。曹操は、陳羣を荊州南陽郡酇(さん)県の県令に、何夔を豫州汝南郡城父(じょうほ)県の県令とし(後に青州長広郡の太守に昇進する)、その他の諸県も名士を起用して鎮撫した。その後、官吏・人民は次第に落ち着いた。(何夔伝 魏書)

未明:張遼、裨将軍に遷(うつ)る。(張遼伝)

漢:建安6年(201年):33歳

未明:曹操、兗州東平郡の安民県に行って食糧にありつこうとしたが、食糧は少なく、袁紹と戦うには不十分だった。(荀彧伝)

夏4月:曹操、ふたたび黄河のほとりに兵を上陸させ、袁紹軍が駐屯している倉亭(場所不明)を攻撃する。(武帝紀)(荀彧伝)
 袁紹、劉備に豫州汝南郡を攻略させた。曹操、劉備を撃破した。
 劉備は、荊州の劉表を頼って逃走し、荊州南陽郡新野県に駐屯した。(武帝紀)(先主伝)
 曹操、倉亭の袁紹軍を撃破。(武帝紀)
 袁紹は、散り散りになった兵を収容した。冀州の城邑(まち)の多くが反旗をひるがえした。それらを撃破して再び平定した。(袁紹伝)

 未明:袁紹が敗れたとき、曹操は、別働隊として張遼を派遣して、豫州魯国の諸県を平定させる。(張遼伝)

 9月:曹操、許に帰還した。(武帝紀)

 未明:徐州東海の昌豨が反抗したので、夏侯淵・張遼とともに、昌豨を包囲した。
 数ヶ月経過しても落とせず、さらに兵糧が尽きてきた。撤退するか議論するなか、張遼が夏侯淵に「昌豨と話をして降伏を促す」ことを提案する。
 張遼、使者を送って昌豨と話したいことを伝えさせた。昌豨は下に降りてきた。張遼、昌豨と語り合い、説得して降伏を促した。昌豨、降伏を認める。
 張遼、単身で山公山に登り、昌豨の家に入って妻子に挨拶した。喜んだ昌豨は、曹操に出頭した。
 昌豨を帰らせた曹操は、張遼を咎めて言った。「大将のやることではない」と。
 張遼は、謝罪して「明公(曹操)の威信は四海に著(あらわ)れております。私が聖旨を奉じ、昌豨を降伏させましたのは、昌豨が敢えて害をなす気はないはずと判断したからです。」(張遼伝)

後漢:建安7年(202年):34歳

春正月:曹操、故郷の豫州沛国譙県に駐留した。
 知人がみんな死んでいたことを知り、ショックを受ける。(武帝紀)

夏5月:袁紹、死亡。

 未明:曹操は、孫権に息子を人質として差し出すよう、要求した。
 孫権は、人質を送らなかった。(周瑜伝 江表伝 52~54P)

秋9月:冀州魏郡黎陽に駐屯した袁譚と袁尚を征伐。(武帝紀)

張遼、袁譚・袁尚討伐に黎陽へおともし、功績を立てて、行中堅将軍となった。(張遼伝)

 未明:匈奴の単于(王)が司隸河東郡平陽県で反乱を起した。
 司隷校尉の鍾繇が諸軍を率いて鎮圧しようとしたが、今度は袁尚が、并州刺史・高幹と河東太守・郭援を司隸河東郡に差し向けて、侵略させた。関右(関西)は、はげしく動揺した。鍾繇は、張既を派遣した。張既は、馬騰と韓遂に利害関係を説明して、説得した。馬騰は、馬超を派遣し鍾繇ともに軍を率いて、単于と高幹と郭援を撃破した。
 馬超の将軍・龐徳が郭援を斬り、高幹と単于は降伏した。
 郭援は鍾繇の甥だった。鍾繇は郭援の首を見て声をあげて泣いた。龐徳は、鍾繇に謝った。鍾繇は言った。
「郭援はわしの甥だけど、国賊だから。どうしてあなたが謝るの」(荀彧伝)(鍾繇伝)(張既伝)(龐徳伝)(馬超伝)

後漢:建安8(203年):35歳

春3月:冀州魏郡黎陽に駐屯した、袁譚と袁尚を敗走させる。

夏4月:黎陽から、北に向かって軍を進め、鄴がある鄴県へ。
張遼は袁尚攻撃に参加した。袁尚は、固守して降らなかった。(張遼伝)

 5月:曹操、許都に帰る。
 賈信を黎陽に残して駐屯させた。(武帝紀)

張遼と楽進に命じて冀州魏郡の陰安を陥とし、その住民を河南(場所不明)に移住させた。(張遼伝)

秋8月:袁譚と袁尚が冀州で争い始めた。
 荊州の劉表が、劉備を使って北方に侵入させ、荊州南陽郡葉(しょう)県まで来た。
曹操は、袁譚と袁尚を後回しにして、夏侯惇・于禁・李典を連れて、(豫州汝南郡西平県)西平に駐留した。
曹操、夏侯惇に于禁・李典を付き従わせて、博望坡で劉備を防がせた。(李典伝)(先主伝)

※けろりっちは、気付いた。
 博望坡の戦い。
 演義では、諸葛亮が関羽と張飛に認められるための見せ場で、時系列は208年長坂波の直前だった。
 史実では、鄴城すら落としてない203年の戦いであり、諸葛亮を迎えてすらいなかった。
 史実の劉備は、デキる漢(おとこ)でした。

 曹洪、別軍の指揮を執り荊州の劉表を征伐し、南陽郡の舞陽県・陰県・葉県・堵陽県・博望県の各地で劉表の別将を撃破した。(曹洪伝)
 劉表が荊州南陽郡西鄂県を攻撃した。西鄂県の長・杜襲は、城を守った。(杜襲伝)
 孫権、西に軍を動かして、江夏の黄祖を撃った。水軍は打ち破ったが、城は落とせずにいた。山岳地帯の不服住民が動き出したので、黄祖討伐は中止した。(呉主伝)
 楽進、別働隊として黄巾の賊を攻撃して、青州楽安郡を平定した。(楽進伝)

 袁譚と袁尚が冀州で争った結果、袁譚が負ける。
 袁譚が曹操に命乞い救援を要請した。荀攸は、袁譚を助けろという。曹操は、袁譚救出のため、西平から軍を引き上げた。 

 10月:曹操、冀州魏郡黎陽に到着した。
 袁尚、平原にいる袁譚を攻撃していたが、曹操が戻って来たと知って、鄴に帰った。
 曹操は、袁譚と婚姻を結び、いったん休戦状態になった。(武帝紀)(袁紹伝)

後漢:建安9(204年):36歳 

張遼、またも鄴の攻撃に参加した。(張遼伝) 

 袁尚、鄴の守備を審配と蘇由に任せて、再び平原にいる袁譚を攻撃した。
蘇由は、曹操に内応しようとしたところ、審配にバレたので、曹操のもとへ逃げる。 
 曹操、鄴に攻撃を加えた。審配は、よく護った。

 5月:曹操、穴を掘って漳水(冀州安平経県の西にある川を決壊して、鄴城内に水を注ぎ込んだ。
 5月から8月にわたり包囲は続けられ、城中で餓死する者は過半数に及んだ。袁尚は鄴を救おうとしたが、失敗して中山(冀州中山国)に逃亡した。

 8月:審配が護っていた鄴が、陥落した。
審配は、最後まで袁紹への忠義を貫いたため、処刑された。
 并州刺史の高幹は、州をあげて降伏した。高幹、再び并州刺史に任命された。 

未明:張遼、鄴が敗れると、別軍を連れて、(冀州)趙国と常山を攻め陥とし、山沿いの賊どもと黒山の孫軽らを誘って降伏させた。(張遼伝)

 未明:袁譚、龍湊(りゅうそう)城(冀州渤海郡南皮県)に駐屯した。

 12月:曹操、袁譚が駐屯している龍湊城の城門に陣を張った。 (武帝紀)

張遼、袁譚の攻撃に参加した。(張遼伝)

 ところが、袁譚、夜中に南皮から逃走し、清河(せいが)(冀州清河国)を前にして駐屯した。(武帝紀)

 未明:幽州遼東郡の公孫度が死去。
子の公孫康が位を相続し、弟の公孫恭を永寧郷侯に任じた。(公孫度伝)

 

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