けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

C:北伐

【建安10年(205年)〜建安12年(207年)】

後漢:建安10年(205年):37歳

 袁譚を攻撃してうち破り、袁譚・郭図を斬り、その妻子を処刑し、冀州は平定された。
 袁尚と袁煕は、部下の将軍(焦触・張南)に裏切られて、幽州遼西群の烏丸を頼って逃亡した。
 焦触、勝手に幽州刺史を名乗り、曹操に降伏して、列侯に封じられる。(武帝紀)

未明:張遼、袁譚が敗れると、別軍の将として青州東莱郡の海岸地帯を攻略し、幽州遼東郡の公孫氏の将・柳毅(りゅうき)らを打ち破った。
 青州東莱郡牟平(ぼうへい)県の賊徒・従銭(じゅうせん)には仲間が数千いた。
長広太守の何夔(かき)は、郡兵を率いて張遼とともに討伐して、彼らを平定した。
 青州東莱郡東牟(とうぼう)県の人・王営(おうえい)は、三千軒を仲間とし、青州東莱郡昌陽(しょうよう)県を脅して反乱を起こした。
何夔(かき)は、官吏の王欽らを派遣して、彼らを離散させた。
10ヶ月の間に、すべて平定された。(何夔伝)(張遼伝)

夏4月:黒山の賊・張燕が、その軍勢10余万をひきいて降伏し、列侯に封じられた。(武帝紀)

 幽州涿郡故安県の趙犢(ちょうとく)・霍奴(かくど)が、幽州の刺史と涿郡の太守を殺害した。

 三郡の烏丸族が、幽州漁陽郡獷平(きょうへい)県にいる鮮于輔(せんうほ)を攻撃した。

秋8月:曹操、趙犢・霍奴を征討し、斬った。鮮于輔を救援する。烏丸は国境を出て遁走した。

 未明:楽進・張郃、別働隊として、幽州漁陽郡雍奴(ようど)県を包囲し、攻撃して打ち破った。(楽進伝)(張郃伝)

 9月:曹操、布告を出した。(内容は省略)

冬10月:曹操、鄴に帰還した。

 未明:曹操、烏丸を征伐するための準備を始める。
董昭からの建策により、運河を掘って呼沲(こた)から泒水(こすい)に通じ、平虜渠(へいりょきょ)と名付ける。泃河(こうか)の河口から掘って潞(ろ)河に通じ、泉州渠(せんしゅうきょ)と名付け、海まで通じさせた。(武帝紀)(董昭伝)

11月?:并州刺史の高幹が反乱を起こした。上党の太守を捕らえ、壺口関(ここうかん)に籠もった。(武帝紀)

張晟が誰にも従属することなく、崤・澠あたりの地域(司隸弘農郡澠池県)を荒らしまわった。司隸河東郡の司隸弘農郡の張琰・張白騎がそれぞれ呼応し、張晟に加勢した。鍾繇と張既、馬騰ら将軍を招いて、鎮圧にのりだした。(鍾繇伝)(張既伝)(龐徳伝)

 曹操は、楽進・李典を、高幹が立て籠もる壺口関に派遣して攻撃させるも、陥落できない。(武帝紀)(袁紹伝)

後漢:建安11年(206年):38

春正月:曹操、并州刺史・高幹討伐に向かう。曹仁、曹操のおともをする。楽進・李典と合流する。
 高幹、匈奴に救援を要請するも断られる。
 曹操『城が陥落したら皆殺しにしろ』
 曹仁『物事には逃げ道を作らないと。殺されるって分かってたら、そりゃ必死にもなります。』
曹仁の話を聞いた曹操、皆殺しの命令を取り下げた。
城兵は降伏した。包囲して3ヶ月経っての降伏だった。
高幹、荊州に逃げる途中、上洛都尉の王琰に斬られた。

 別部司馬の梁習に、并州刺史を代行させた。(後に、正式に刺史に任命されます)(梁習伝)

 未明:天子が西(長安)に移ってから、洛陽は住民がいなくなっていた。鍾繇は、関中の民を移住させ、逃亡者・反乱者を呼び入れて洛陽の住民とした。数年の間に、洛陽の民の戸数は次第に充実した。

未明:張遼、青州の賊退治が終わったので、鄴に帰還すると、曹操は自身で張遼を出迎え、手をひいていっしょに車に載せた。(張遼伝)
未明:曹操、漢帝に上奏文を奉り、于禁・楽進・張遼をたたえて述べた。
『 武力が優れているうえに、計略は行き届き、忠義にして純一なる性質をもち、固いみさおを保持しております。
 戦闘攻撃に臨めば、つねに指揮をとり、力をふるって、堅陣を突き破り、堅固であっても陥落させないことはなく、自身枹と太鼓をとり、手はうむことを知りません。
 また別軍として征討に派遣されると、軍隊を統率し、兵士たちをかわいがっては和を基本とし、命令をかしこみ、違反をすることなく、敵にぶつかって決断を下す場合も失敗はございません。
 功績を調べはたらきを記し、それぞれ顕彰され恩寵を下さるべきと存じます。』
于禁は虎威(こい)将軍に、
楽進は折衝(せっしょう)将軍に、
張遼は盪冠(とうかん)将軍にとりたてられた。 (楽進伝)

秋8月(?)荊州江夏郡で問題(?)が発生、徐州東海郡で昌豨が謀反を起こし、青州北海郡淳于で菅承が暴れだした。
荊州江夏郡には、張遼を派遣した。
東海の昌豨には、于禁と臧覇に対応させた。
青州北海郡の菅承には、楽進・李典を連れて、曹操みずから出向いた。

荊州江夏郡
 荊州江夏郡江夏太守の黄祖が、柴桑(さいそう)に鄧龍(とうりゅう)を遺り(送り)、数千人を率いて柴桑に侵入させた。周瑜はこれを追撃し、鄧龍を生け捕りにして呉へ護送した。(周瑜伝 52P)
 黄祖の息子の黄射が、あるとき、数千人を率い、長江を下って徐盛に攻撃をかけて来たときがあった。徐盛の手元には、そのとき、軍吏と兵士を合わせても200人に満たぬ数しかいなかった。徐盛は、黄射を迎えて一歩も退かずに戦った。黄射の軍吏や兵士千余人に傷を与えた。さらに、城門を開いて兵をくり出して戦い、徹底的に打ち破った。黄射は、このことがあって以後、あとを潜めて二度と侵攻してくることはなかった。(徐盛伝 147~148P)

 張遼、別働隊として荊州へ。荊州を攻撃し、江夏の諸県を平定した。
帰還して、臨潁(豫州潁川郡臨潁県)に駐屯する。
都亭侯にとりたてられた。(張遼伝 214P)
※ 黄射と鄧龍の侵攻は、具体的な時系列は不明です。 1.建安11年(206年)は各地で反乱が発生していて、曹操軍が鎮圧に東西奔走していること。
2.普段守るだけの黄祖が珍しく攻める側になっていること。
3.周瑜伝の記述の順番を信じて。
以上、上記1~3を理由根拠とし、周瑜伝の鄧龍侵攻と、徐盛伝の黄射侵攻を同時期と考えて、建安11年(206年)と判断しました。
※ 張遼の江夏平定と、周瑜の鄧龍追撃戦・徐盛の黄射迎撃戦が、つながっているのか、共同作戦だったのかは不明です。

青州北海郡淳于
 曹操は、楽進・李典を連れて、東の青州北海郡淳于に来た。楽進と李典を派遣して、海賊の管承を撃破した。管承は海中の島に逃げた。(武帝紀 62P)(楽進伝)(李典伝)

徐州東海郡
 徐州東海郡で昌豨が謀反を起こしたので、于禁・臧覇が対応したが、なかなか陥ちないので夏侯淵が援軍に向かった。
昌豨は降伏したが、于禁に斬られた。

 曹操、淳于で、昌豨が于禁に斬られた報告を聞く。(夏侯淵伝)(于禁伝)(臧覇伝)(武帝紀)
また、東海郡のうち、(じょうほん)・(たん)・戚(せき)の諸県を割いて徐州琅邪(ろうや)郡につけ、(しょうりょ)郡を省いた。(武帝紀)

青州の済南郡と楽安郡
 昌豨の反乱を鎮圧した後。青州の済南郡と楽安郡の黄巾賊である除和・司馬具らが城を攻撃して、県の高官を殺害した。夏侯淵・臧覇が対応して、撃破した。(夏侯淵伝)(臧覇伝)

後漢:建安12年(207年):39

春2月:曹操、青州北海郡淳于から鄴に帰還する。

袁尚に味方する(漁陽郡・右北平郡・雁門郡の)鳥丸を征伐するため、田疇に道案内をしてもらい、柳城へ向かう。【白狼山の戦い】

C:建安12年(207年)白狼山の戦い ←長くなったので、記事を分けました。

未明:柳城から帰還した張郃、青州東来郡で菅承を討伐した。

未明:孫権、黄祖を攻める。配下の民衆を捕まえて連れ帰った。

 

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