誰も損しない出来事
217年濡須口の戦いにて。
先鋒の張遼と臧覇の会話です。
張遼「撤退したい。撤退してもいい?」
臧覇「曹操様の指示を待ったほうがいいんじゃない?」
翌日、曹操から撤退の指示が出た。
曹操、張遼から臧覇の話を聞いて、臧覇を昇進させ、節を与えた。
張遼→脳筋に見えて、退くところは退く判断ができる。
↓
臧覇→現場を勝手に離れてはいけないと暗に注意してる。
↓
曹操→翌日、撤退の指示を出す。
↓
張遼→臧覇のことを曹操に報告する。
↓
曹操→臧覇を昇進させる。
誰も損しない良いエピソード。
けろりっちは大好きです(*^^)v
参考にしたもの
ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)
3巻[魏書Ⅲ]臧覇伝
繁欽(ばきん)
張遼が危険を顧みず、諸将の反対を無視して、山登りを決行した結果、陳蘭・梅成の首を取り、数万人の軍勢を降伏させたうえに、あっという間に戦を終わらせたことがとても衝撃だったのか、張遼をたたえる詩を作った者がいます。
繁欽(ばきん)という人です。
趙儼、杜襲の友人です。
繁欽は、征天山賦という詩を作って、張遼の勇壮さを表現しています。
張遼のファンは、曹家(曹丕・曹植)だけではなかったようです。
記録に残ってないだけで、ファンはもっと多かったかもしれませんね!
☆*:.。. ヽ(≧▽≦)ノ .。.:*⭐︎
『征天山賦』で検索かけたらいろいろ出てくるので、調べてみてください(^^)v
繁欽の経歴
★繁欽(ばきん):豫州潁川郡?県の人
文才と機転のきく弁舌によって、若くして汝・潁の地方で名声を得た。繁欽は、書と記を得意としてるうえに、詩と賦を作ることが上手だった。繁欽が太子に送った書簡に、薛訪(せつほう)の御者がのどを転がすような美声で歌う内容が記述されているが、まずだいたい巧みで美しい文である。(文選 巻四十「与魏文帝?」)
丞相主簿となり、建安23年(218年)に亡くなった。(王衛二劉傅伝 典略)
★繁欽と友人
杜襲(としゅう):豫州潁川郡定陵県の人
趙儼(ちょうげん):豫州潁川郡陽翟県の人
荊州に乱を避け、杜襲・趙儼・繁欽の三人で財産・会計を共通にし、一つ家として一緒に暮らした。劉表は賓客の礼をもって待遇した。同郡の繁欽は、たびたび劉表に目をかけられたが、杜襲は彼に言い聞かせた。
「 わしが君といっしょに来た理由は、ただ奥深い藪に龍のようにじっとわだかまり、時節を待って鳳凰のごとく飛翔したいからなのだ。君は劉牧を、動乱を治める君主にまちがいなしと決め込んで、長者として身を委ねているのかね。君がもしこれ以上能力を示し続けるならば、わしの仲間じゃない。わしはまず君と絶交する。」
繁欽は悲痛な様子で「慎みてご命令どおりにいたしましょう」と言った。
曹操が、初めて献帝を迎えて、許に都を移した。
杜襲は、故郷に逃げ帰った。
趙儼は繁欽に向かって言った。
「 曹鎮東将軍は時運に応じ一世に名をあげられたからには、よく中華を正し、救われるに違いない。わしは誰に帰服すればよいか、わかったぞ 」
老人と年少者を助けながら、曹操のもとへ赴いた。 (杜襲伝)(趙儼伝)
参考にしたもの
ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)
3巻[魏書Ⅲ]王衛二劉傅伝(典略)
4巻[魏書Ⅳ]杜襲伝、趙儼伝
張遼と李典
年表を作りながら、分かったことがあります。
李典の叔父さんは、呂布の兵に殺されたのかなって思ってたら、違うんですね!
兗州組の、曹操派と呂布派に分かれた抗争に巻き込まれて殺されたんですね。
そういうことであれば、張遼が叔父の仇というよりは、呂布に酷い目に遭わされた兗州組の一人として、張遼のことが嫌いなだけな気がしてきました。
あとは、単純に性格の不一致か。
ただ、陳宮が謀反を起こして呂布を受け入れさえしなければ、曹操派呂布派で分裂せずに済んだわけですので、まぁ仇か。
史実に書いていない以上は、すべて想像でしかありませんが。
なにも解決してないや。私はなにが言いたかったのかしら(−_−;)
ちなみに。
楽進はぶっちゃけよく分かんないです。
張遼とだけ不仲ならまだしも、于禁・李典とも不仲。どうなってるの???
けろりっちの呟きを読んでくださり、ありがとうございました。
荊州江夏郡の江夏太守・黄祖
黄祖、という人がいます。
息子は黄射(こうえき)
荊州の劉表の配下です。
荊州江夏郡沙羨県で江夏太守を務めています。城は夏口にあります。
『江夏太守』『夏口』というと、黄祖が亡くなった後、劉琦が後任になった、あの夏口です。
張遼伝の中に『別軍を率いて荊州を攻撃し江夏の諸県を平定し~』とありますが、時系列は分からないわ、誰となにがあったのか詳細不明でしたので、荊州江夏郡の江夏太守・黄祖について、簡単に調べてメモりましたので、ここに公開します。
参考にしたものは、ちくま正史三国志です。
あくまで、張遼が江夏に来た時系列が知りたいだけなので、省略しまくりです。
★初平3年(192年)
孫堅、袁術からの命令で荊州の劉表を攻める。
劉表は、黄祖を送り、孫堅を迎え撃つ。
孫堅、黄祖の罠にかかって死亡。 (孫堅伝 30P)
★建安4年(199年)
孫策、詔勅により、袁術と劉表を攻めることになった。
袁術は死亡した。(省略)いろいろあって、劉勲と黄祖と交戦した。(孫策伝 52〜53P)
劉勲を尋陽に討伐し、さらに軍を進めて黄祖を沙羨に攻めた。(程普伝 111P)
尋陽の劉勲を討ち、江夏の黄祖を攻めた。(董襲伝 130P)
★建安8年(203年)
孫権は西に軍を動かして黄祖を撃った。水軍は打ち破ったが、城は落とせずにいた。
山岳地帯の不服住民が動き出したので、黄祖討伐は中止した。(呉主伝 75P)
★建安11年(206年)
荊州江夏太守の黄祖が、柴桑(さいそう)に鄧龍(とうりゅう)を遺り(送り)、数千人を率いて柴桑に侵入させた。周瑜はこれを追撃し、鄧龍を生け捕りにして呉へ護送した。(周瑜伝 52P)
黄祖の息子の黄射が、あるとき、数千人を率い、長江を下って徐盛に攻撃をかけて来たときがあった。徐盛の手元には、そのとき、軍吏と兵士を合わせても200人に満たぬ数しかいなかった。徐盛は、黄射を迎えて一歩も退かずに戦った。黄射の軍吏や兵士千余人に傷を与えた。さらに、城門を開いて兵をくり出して戦い、徹底的に打ち破った。黄射は、このことがあって以後、あとを潜めて二度と侵攻してくることはなかった。(徐盛伝 147~148P)
張遼、別働隊として荊州へ。荊州を攻撃し、江夏の諸県を平定した。
帰還して、臨潁(豫州潁川郡臨潁県)に駐屯する。都亭侯にとりたてられた。(張遼伝 214P)
※ 黄射と鄧龍の侵攻は、具体的な時系列は不明です。
1.建安11年(206年)は各地で反乱が発生していて、曹操軍が鎮圧に東西奔走していること。
2.普段守るだけの黄祖が珍しく攻める側になっていること。
3.周瑜伝の記述の順番を信じて。
以上、上記1~3を理由根拠とし、周瑜伝の鄧龍侵攻と、徐盛伝の黄射侵攻を同時期と考えて、建安11年(206年)と判断しました。
※ 張遼の江夏平定と、周瑜の鄧龍追撃戦・徐盛の黄射迎撃戦が、つながっているのか、共同作戦だったのかは不明です。
★建安12年(207年)
黄祖を攻める。配下の民衆を捕まえて連れ帰った。
★建安13年(208年)
春:孫権、黄祖を攻めた。
周瑜、呂蒙、周泰、凌統、董襲が精鋭をすべて投入して攻め立てたため、黄祖の城は落ちた。
黄祖は身一つで逃亡したが、騎兵の馮則(ふうそく)が黄祖の首を斬り、晒し者とした。
黄祖の配下男女数万人を捕虜とした。 (呉主伝 77P)
他に、黄祖征伐の記録があった人(呂蒙伝 88P)(周泰伝 122P)(董襲伝 130~131P)(凌統伝 143P)
甘寧。長いので省略。黄祖配下のときに凌操を射殺している。3年いた。(甘寧伝)
黄祖が亡くなった後は、劉琦が江夏太守になった。(諸葛亮伝)
けろりっちは、呟きます。
けろりっちが一番知りたかった張遼伝の『荊州を攻撃して江夏の諸県を平定した』の時系列と、誰がどんなふうに関わったのか、結局、はっきりとは分かりませんでしたが。
普段守りに徹している黄祖が、206年だけ息子と配下を南に向けて侵攻させているのを見ると、時期的に建安11年(206年)かな???ということに落ち着きました。
南に軍を進めて呉将を釘付けにして、その間に北の曹操を突こうとして・・・・・みたいな??
何が凄いかって、張遼と孫家が、合同で黄祖を叩いていたかもしれない、という事実が分かったことです。あくまで、”かもしれない”ですが(´ε` )曹操と孫家は婚姻を結んでいるし、208年の赤壁までは、同盟関係だったとはいえ、後々の展開を考えると、とても不思議な気分です。
黄祖は、物語が切り替わるときに出てくる中ボスってかんじ。
曹操にとっての中ボスが呂布なのと同じで(袁紹は大ボス)。
どうして伝記がないのか、不思議です。
晩年の黄祖。甘寧伝を信じるなら、連戦で軍備を整えるお金が続かなくなったのかな?とか。(特に206年は孫家だけでなく曹操(の張遼)も来たので)
また、黄祖が高齢になって衰えていても、黄祖軍のなかには優秀な都督がいたようですので、それでまだ戦えたんだな、と思ったりですね!
孫堅を討ってから16年間、孫家を防いだのは、素直に凄いと思います!
もし、黄祖のお墓に向かってなにか言うなら。
『お疲れ様でした』と言ってさしあげたいです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
張遼が江夏に来た時系列を知るために、参考にしたもの
ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)
1巻[魏書Ⅰ]武帝紀(曹操)
2巻[魏書Ⅱ]夏侯淵伝、何夔伝
3巻[魏書Ⅲ]張遼伝、楽進伝、于禁伝、李典伝、臧覇伝
6巻[呉書Ⅰ]孫堅伝、孫策伝、呉主伝(孫権)
7巻[呉書Ⅱ]周瑜伝、程普伝、呂蒙伝、周泰伝、董襲伝、甘寧伝、凌統伝、徐盛伝
張遼の武勇について
呂布の配下になってると思ってたが違うと気付いた話
張遼は洛陽に戻ったとき、丁原と何進が死んでたので、董卓についた呂布に仕えた。
と思っておりました。
が、違うっぽい???
もしかして、ほんとに董卓の配下になったのかな!?
それなら、無双の董白ちゃんとの関係も納得いくのよね。
董卓の配下になってるんであれば、董卓殺害に張遼は関わってないことになりますね!
并州人同士で集まって董卓殺害を計画したと思ってたけど、私の思い込み勘違いだったかもしれん。
暴虐無人の董卓殺害に加担していれば、記録残ってるか。
董卓に仕えてたけど、董卓が呂布に殺されたので
呂布「おまえ、これからどうするの?」
張遼「呂布殿についていきます」
呂布「じゃあ今からおまえは騎都尉な!オレについてこい!」
こんなかんじかしらね。
終わり。
呂布応援団
2011年10月未明。けろりっちの娘(1歳)が入院中の保育園。
病院がある方角に向かって
先生とちびっ子『娘ちゃーん!がんばれー!』
1800年前の三国志の時代(後漢末)
張楊『呂布ー!がんばれー!』
ちくま正史三国志2巻の91ページに
『太祖(曹操)が呂布を包囲したさい、張楊は呂布を救援したいと思ったができなかった。そこで、河内郡野王県の東の市場に出兵して、はるかに声援を送ったのだった』
っち書いてありますね。
原文だとちょっとニュアンスが違うようですが、ちくま正史三国志にはこのように書かれております。
このことで、曹操と敵対することが決定付けられた?わけですが。
この後、曹操派で部下の楊醜に殺されてしまいます。
張楊と呂布で手を組んで、献帝をお迎えできていたら、どうなってたのかなぁ?と夢は膨らむばかりです。
保育園の先生、ちびっ子のみんなへ。
娘はあの後も何度か肺炎になっては入院しましたが、9年経った今は元気になりました!保育園の先生、ちびっ子たち、ありがとうございました。
陥陣営 高順 (考察など)
下邳城の戦いで曹操が手に入れたもの
杜氏(関羽と曹操が取り合った女性で、秦宜禄の妻)
曹操軍を苦しめた精鋭兵
張遼
高順はなんで死んでしまったんだろう。生きてたら活躍しそうなのに( ´・ω・ `)
という疑問をTwitterにて呟いてみたところ
『高順は兗州人なので、謀反人扱いで問答無用で処刑されたのでは?』
というお返事をいただきました。
『その証拠に、人材マニアの曹操が、助命の一つもしてないのはおかしい』と
并州から丁原といっしょについてきた張遼の先輩だと思いこんでいた、けろりっちには衝撃でした。
あくまで『可能性』で『かもしれない』という予想はありますが。
また、単純に、呂布の副将ということで処刑されただけでは?という意見も見かけまして、なるほど~?と。
高順の人となりが分かるものは、英雄記に載っています。
英雄記は、曹魏に所属する王粲という人が作成したものです。217年に亡くなっています。
敵であるはずの曹操側の人間が、どうして呂布軍内についてそんなに詳しいの?っち考えたときに、
『呂布軍時代の話を張遼が王粲に話した』と予想すれば、張遼が高順のことをべた褒めしていた!ということに\(^o^)/
あくまで予想ではありますが、夢があっていいと思いませんか!?
高順が呂布に冷遇された理由について
郝萌、殺す前に呂布に突き出せばよかったかもしれん。
郝萌は河内の人よね。
親友で恩人の、河內太守・張楊の軍から合流したとすれば、殺すのは尚早だったかもしれない。
虐められてるのに高順が恨み言を言わなかったのは、この辺を察してしまったからかもしれん。
元々、何度も何度も諫言をしてきた高順です。
この事件をきっかけに、遠ざけるようになっちゃったね(;ω;)
高順が兗州人かもしれない、で検索したときに参考にしたもの↓
こちらは、Twitterのフォロワー様から紹介していただいたもの。↓↓↓
けろりっち、動画を見て感動して涙を流すなど
ウルウルウルウル .°(ಗдಗ。)°.