けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

D:建安14年(209年)陳蘭と梅成の乱 (編集中)

建安14年(209年):41

 

春3月:軍は譙に到着した。軽快な船を作って水軍を訓練した。

秋7月:合肥に陣どった。(武帝紀)

 

冬12月?:陳蘭と梅成が氐族の居住地六県をもって反乱した。

 曹操は于禁、臧覇らを派遣して梅成を討伐させ、張遼に張郃と牛蓋らを指揮させて陳蘭を討伐させた。

 梅成は于禁に降伏したが、軍勢をひきつれて陳蘭と合流した。

 陳蘭は梅成と天柱山に砦を築き、わたる道は狭くて危険で、歩く小道がわずかに通じていた。

 周囲の将軍たちが諌めても、張遼は危険を侵して勇んで進み、かくて彼らを攻撃して陳蘭と梅成の首を斬った。

 曹操はこの戦功を調べて称え、領地を加増し、仮節とした。(張遼伝)

 

張郃、張遼とともに陳蘭・梅成らを討伐し、それをうち破った。(張郃伝)

 

于禁、臧覇らと梅成を攻撃した。張遼・張郃らは陳蘭を征討した。于禁が到着すると、梅成は軍勢三千余人をあげて降伏した。しかし、再び叛き、梅成は軍勢を引き連れて陳蘭と合流した。張遼らは陳蘭と対峙していたが、兵糧が少なかった。于禁は兵糧輸送の役に当たり、途絶えさせることがなかった。張遼はかくて陳蘭と梅成を斬った。(于禁伝)

張遼が陳蘭を討伐したとき、臧覇は別に派遣されて皖まで行き、呉の将・韓当を討ち、孫権の陳蘭救助を不可能にしようとした。韓当は兵を派遣して臧覇を迎え撃った。臧覇は逢龍(ほうりゅう)で戦った。韓当は兵を出して臧覇を夾石(きょうせき)で迎え撃った。臧覇は戦ってこれをうち破り、引き返して舒(じょ)に駐屯した。孫権は数万人を乗せて派遣し、舒口(じょこう)に駐屯させ、兵を分けて陳蘭を救助させたが、臧覇の軍が舒にいると聞くと退却した。臧覇は夜それを追撃し、明け方頃には百余里を行軍し、賊を待ち受けて前後からそれを攻撃した。賊は追い詰められて船に乗ることもできず、水に入り込む者が非常に多かった。このため賊(孫権)は陳蘭を救助できず、張遼は彼をうち破った。(臧覇伝)

 

 

このとき、于禁・張遼・楽進・徐晃は名将であり、曹操が征伐するごとに、皆かわるがわる起用され、進撃のときは軍の先鋒となり、帰還のときは殿(しんがり)となった。(于禁伝)

 

 

 

おまけ:私、けろりっちが合肥の次に好きな戦です。各々が自分たちのやるべきことをこなした結果、目的を果たせたからです。

 一見すると、梅成に騙された于禁と臧覇が残念なように見えますが、于禁と臧覇は軍律に則ったまでで、落ち度はありません。

 陳蘭と対峙していてすでに兵糧が足りなくなっていた張遼軍(と張郃・牛蓋)、そこに梅成が合流してきたところに、于禁が兵糧を運ぶことに専念して、迫りくる敵の援軍(孫権軍)を臧覇が抑えることによって、張遼が目の前の敵に集中することができたわけです。

 

 ちなみに、曹操は特に張遼を褒めていて、張遼に節を与えています。

 張遼が危険を顧みず、諸将の反対を無視して、山登りを決行した結果、陳蘭・梅成の首を取り、数万人の軍勢を降伏させたうえに、あっという間に戦を終わらせたことがとても衝撃だったのか、張遼をたたえる詩を作った者がいます。

 

繁欽(ばきん)という人です。

趙儼、杜襲の友人です。

 

 繁欽は、征天山賦という詩を作って、張遼の勇壮さを表現しています。

張遼のファンは、曹家(曹丕・曹植)だけではなかったようです。

記録に残ってないだけで、ファンはもっと多かったかもしれませんね!☆*:.。. ヽ(≧▽≦)ノ .。.:*⭐︎

 

『征天山賦』で検索かけたらいろいろ出てくるので、調べてみてください(^^)v

 

工事中、または編集中です。読みにくくてすみません。

 

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