けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

E:合肥・漢中・荊州

【建安19年(214年)〜建安25年(219年)】

後漢:建安19年(214年):46

 韋康いこうの元配下である、楊阜ようふ尹奉いんほう姜敍きょうじょ梁寬りょうかん趙衢ちょうくらが共謀して、馬超を攻撃した。
 楊阜ようふ姜敍きょうじょが、鹵城ろじょうで兵をあげた。
 冀城にいた馬超は、鹵城ろじょうを攻めたが、落とせなった。
 姜敍きょうじょらは、馬超の妻子を皆殺しにした。(夏侯淵伝)
 また、姜敍きょうじょらは夏侯淵に救援を要請した。
 夏侯淵・張郃が救援に向かい、馬超軍と韓遂軍と交戦した。
 その隙に、梁寬りょうかん趙衢ちょうくが冀城の門を閉ざしたため、馬超は帰るところがなくなってしまった。進退極まった馬超は、漢中の張魯のもとへ身を寄せた。
 詔勅が下された。馬超の家族は捕らえられ、皆殺しにされた。
 いろいろあって、馬超は劉備がいる蜀へ奔った。(夏侯淵伝)(張郃伝)(馬超伝)
 馬超が劉備についたと知った劉璋は、劉備に降伏した。(先主伝)(馬超伝)

 5月:孫権が揚州の皖城かんじょうを攻めた。
 張遼、皖城かんじょうを救援するため夾石きょうせきまで来ていたが、落城したと知って、軍をめぐらせた。(呂蒙伝)
 劉備が蜀を平定したので、荊州を返してもらうように諸葛瑾を使者に立てて派遣したが、はぐらかされてしまったので、孫権は荊州を攻めた。(呉主伝)

 秋7月:曹操は孫権を征討した。参軍の傅幹ふかんが諌めたが、曹操は聞かなかった。結局、戦果はふるわず、戦功はなかった。
 曹操、温恢おんかいを揚州の刺史とし、蒋済しょうせいを別駕に任命した。
 張遼・楽進・李典を兵7千人とともに合肥に駐屯させた。
 また、曹操は張魯征伐に向かったが、護軍の薛悌せつていに命令書を与えて、箱のふちに「賊が来れば開け」と記しておいた。(張遼伝)
 曹操、張遼・楽進に対して「揚州刺史の温恢おんかいは軍事に通達している。いっしょに相談して行動せよ」と言った。(温恢伝)

 未明:張遼の護軍は、武周です。
 過去に呂布と同盟を結んだことがある臧覇が、敬愛している人物です。
 張遼も、武周を尊敬しています。その張遼と武周が、仲違いをしていました。
 張遼は、揚州刺史の温恢に、胡質を貰い受けたいと願いました。
 ところが、胡質は、病気を理由に、断っていました。張遼は、直接、胡質に真意を聞きに行きました。
 張遼「 僕は、あなたに身を委ねているのに、どうしてそっぽを向くの?」
 胡質「(省略)武伯南はとても優秀な人物であり、過去には将軍(張遼のこと)も称賛しておられたのに。今は、わずかな(目つきが悪いからという理由で)恨みから憎しみ、仲違いをされてしまいました。私は才能がないのに、どうして最後までつきあえましょうか?私は気が進みません。」
 胡質の話に感じ入った張遼は、ふたたび武周と仲良くなりました。

※ちくま正史三国志の日本語訳を、ちょっぴり変更しました。


 張遼、とある出来事→【素直に謝罪する

 冬10月:涼州が平定された。
  曹操、合肥からの帰途についた。

 11月:伏皇后が処刑された。

 12月:曹操は、孟津もうしんに到着した。(省略します)

後漢:建安20年(215年):47

春正月:天子(献帝)は、曹操の真ん中の娘を立てて皇后とした。

 3月:曹操、張魯征伐に西へ赴く。他、張郃・朱霊。

夏4月:曹操、陳倉から散関へと出、河地に到達した。

 5月:韓遂の首が送られてきた。

秋7月:張魯、降伏。
 孫権と劉備は同盟を結ぶ。

 8月:孫権が合肥を包囲した。→曹操軍の勝利。(武帝紀)
 張遼は、征東将軍に昇進した。(張遼伝)
E:建安20年(215年)合肥の戦い 1
E:建安20年(215年)合肥の戦い 2 ←長くなったので記事を分けました。

 9月:天子(献帝)は、曹操が外の任務を担っている以上、事に当たっての恩賞を速やかに行わなければならない場合があるため、独断で諸侯・太守・国相を任命する権限をあたえた。

冬10月:はじめて名号侯(実封のない名称のみの侯)から五大夫に至るまでの爵位を設け、旧来の列侯・関内侯とあわせて六等級とし、それによって戦功を賞した。

 11月:張魯が降伏した。張魯、および子を列侯にとりたてた。
 劉備が劉璋を攻めるも、馬超が劉備の配下になった途端、劉璋は劉備に降伏した。
 曹操は、夏侯淵に張郃・徐晃らを派遣して、巴郡を平定させた。

 12月:曹操、夏侯淵を漢中の守備として残し駐屯させ、征西将軍に任命した。

後漢:建安21年(216年):48

 未明:李典、死亡。

春2月:曹操、鄴に帰還した。

 3月:天子(献帝)は曹操の爵位を昇進させて、魏王とした。

秋7月:匈奴の南単于・呼廚泉が配下の名王を連れて来朝した。

 8月:鍾繇を相国とした。

冬10月:孫権を討伐するため、南征する。(武帝紀)(呉主伝)

 11月:譙に到着した。(武帝紀)

 未明:曹操、合肥に到着すると、張遼の戦った場所をめぐり歩き、長い間感歎していた。そこで、張遼の兵を増加した。
 居巣に諸軍を多くとどめ、駐屯地を居巣に移させた。(張遼伝)

後漢:建安22年(217年):49

春正月:曹操、居巣に陣をはった。
 夜中、甘寧が100人の決死隊といっしょに奇襲をかけてきた。
 張遼と臧覇が先鋒。
誰も損しない出来事 -
 孫権、曹操に降伏した。
 3月:夏侯惇を26軍の総司令官とし、曹仁・張遼・臧覇を残して居巣に駐屯させた。(武帝紀)(夏侯惇伝)(張遼伝)(臧覇伝)(呉主伝)

 曹操は軍をひきいて帰途につく。

夏4月:五官中郎将の曹丕を太子とした。

 未明:劉備が、張飛・馬超・呉蘭らを派遣して下弁に駐屯させた。
 曹操は、曹洪を派遣した。

後漢:建安23年(218年):50

春正月:大規模な反乱が発生する。

 未明:曹洪が呉蘭を撃破。

 3月:張飛・馬超が漢中に逃亡した。

夏4月:烏丸族が反乱を起こしたので、曹彰を派遣し、うち破った。

 6月:布令を出した。(省略)

秋7月:劉備征伐で西へ赴く。

 9月:長安へ到着。

冬10月:宛の守将・侯音が反乱を起こした。
 南陽の民は、役務に苦しんでいた。そこで侯音は、宛の太守・東里袞を捕らえ、関羽と結託した。
 曹操は、樊城にいる曹仁を向かわせた。

 未明:孫権、虎狩りをする。

後漢:建安24年(219年):51

春正月:南陽の功曹宗氏卿の策により、東里袞は釈放された。曹仁、侯音を斬った。

 未明:劉備軍と夏侯淵軍が陽平で戦い、夏侯淵が戦死した。(夏侯淵伝)

夏5月:曹操、軍を引き上げて長安へ帰還した。

秋7月:曹操の夫人の卞氏を、王后にとりたてた。

 未明:孫権、合肥を攻撃する。(温恢伝)

 未明:樊城の曹仁が関羽に攻められた。曹操は、于禁を派遣した。

 8月:于禁、護軍・浩周と副将の軍司馬・東里袞とともに、関羽に降伏した。

 未明:曹操、楽進・徐晃を救援に行かせた。(諸葛亮伝)

 9月:魏諷の乱。連座で相国の鍾繇が免職。

冬10月:曹操は洛陽に帰還したが、関羽征伐のため南方へ向かう。
また、諸将に詔勅を出し、曹仁の救援に向かうよう、要請した。
 兗州刺史・裴潜と豫州刺史・呂貢らにはゆっくり来るようにいいつけた。
 温恢はひそかに語った。
温恢『 ゆっくり来て、といったのは、兵士たちを動揺させないようにするため。これから、張遼らにも声がかかるはずですが、張遼らは王(曹操)の気持ちが分かるから、急いで向かうはず。先に要請があった、あなたたちの到着が遅かったら、後で怒られるかもよ。』
 温恢の話を聞いた裴潜と呂頁は、慌てて準備して樊城に向かった。
 温恢の予想は的中し、間もなく催促の命令を受けた。また、張遼らが次いでそれぞれ招集された。(温恢伝)
 曹操が到着する前に、徐晃が関羽を撃破していたため、曹仁の包囲は解けていた。曹操は、摩陂に駐留し、諸将と軍を労った。 (武帝紀)
 張遼も招集を受けて樊城に向かっていたが、包囲が解けていたので、摩陂で曹操と会合した。
 張遼、帰って陳郡に駐留した。(張遼伝)

後漢:建安25年(220年):52

春正月:曹操、洛陽に戻る。

 孫権、関羽の首を斬り、首を送ってよこした。

 曹操、洛陽にて崩御。66歳。

 

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