けろりっち(ちょう遼が好き)

いも~れ! 三国志【張遼】を贔屓してます。 張遼の経歴年表を作成中です。

護軍とは???

夏侯尚傳 魏略曰:

夏侯尚伝 魏略にいう:

玄旣遷,司馬景王代為護軍。

夏侯玄が栄転した後、司馬景王(司馬師)が代わって護軍となった。

護軍總統諸將,任主武官選舉,

護軍というのは、諸将を取り締まり、武官の登用を司る任務である。

前後當此官者,不能止貨賂。

代々この官についた者は、みな賄賂を取るのが常だった。

故蔣濟為護軍時,

だから、蒋済が護軍だったときに、

有謠言「欲求牙門,當得千匹;百人督,五百匹」。

『牙門(がもん)になりたかったら、千匹の絹。100人督(小隊長)なら、500匹』

というはやり歌があった。

宣王與濟善,聞以問濟,濟無以解之,

司馬宣王(司馬懿)は蒋済と親しかったので、雑談の席で蒋済に訪ねると、蒋済は弁解のしようがなかった。

因戲曰:「洛中市買,一錢不足則不行。」遂相對歡笑。

そこで、司馬宣王(司馬懿)はからかって「洛中での買い物は、一銭足りなければだめか」といい、向かい合って大笑いした。

玄代濟,故不能止絕人事。

夏侯玄は蒋済と交替したのだが、このため、つけ届けをやめさせることができなかった。

及景王之代玄,整頓法令,人莫犯者。

司馬景王(司馬師)が夏侯玄と交替するに及んで、法令を整備したため、違反する者はいなくなった。

けろりっちは呟く。 

賄賂が横行していた。 

1.将軍のお目付け役として、将軍の働きを監視して報告する。

2.諸将をまとめて、仲を取り持って仲良くさせたり?(趙儼とか)

3.曹操から受けた指示や作戦を諸将に伝えたりとか?(薛悌とか)

4.曹操が柳城を討伐しようとしたとき、領軍の史渙は、護軍の韓浩と協力して諌めようと考えていた。

韓浩「(省略)私とあなたとは中軍の指導者なのだから、ここで兵隊たちの気勢いを挫くべきではないぞ」(夏侯惇伝 魏書:韓浩、史渙)

5.戦に負けたりして将軍が降伏したら、護軍もいっしょに捕虜になったり、最悪処刑される。(于禁といっしょに捕虜になった浩周とか)

6.一人の将軍に一人つくこともあれば、複数人の将軍を一人で統括することもある。

7.護軍は、指名制???将軍が自由に決められた?(胡質とか)(武周とか)

 

1~7の以上が、けろりっちの『護軍』に関する認識です。

4の韓浩と史渙の話は、1~3を含めてるかな???

 

1が賄賂を取っていた理由かしら。

戦場では命がけですから、大変な任務だと思います。

仲が悪い将軍たちをまとめるのも、大変そうです(-_-;)

でも、やっぱり賄賂の件は(´・ω・`)ウーンという気持ちです。

(もちろん、全員が全員、賄賂を取っていたわけではないはず!)

でもね!ここで気をつけないといけないことは!

賄賂を取っていたからといって、決して私腹を肥やしていたのではない!

なぜなら、この時代の優秀な人たちは、報酬や宝物をもらったら、親族や部下に分け与えていたからです。場合によっては、反乱を抑えるために賊にもあげていたかもしれません。

ですので、賄賂を取っていた=ズルをしていた

ではないと、けろりっちは考えます!考えたいです!

まぁでも法を整備したら違反する者がいなくなったということは、やっぱり悪いことだったんですよね。(^^;)

(賄賂自体は、他の官職も蔓延ってたとは思いますので、気にしたらダメなことは分かりますが)

 

とりあえずですね、『護軍』については、深く考えるのはやめました。

考察するにも知識が追いついていないけろりっちは、書いてあることをそのまま知識として覚えるのみです。

また、あんまり考えすぎると、知恵熱ならぬ知恵頭痛が出て1日動けなくなるので(~_~;)

 

 

ところで、7ですが。

護軍って、一人につき一人付く場合は、指名制だったのかな?将軍が自由に決められたんですかね???

張遼、温恢に『胡質をください』胡質に『どうして逃げるの?』って言ってるし。

お目付け役なのに、指名OK???

へ~( ゚д゚)???

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

7について書いた記事です、よかったら読んでみてね!『護軍』にまつわる張遼のエピソードです→【素直に謝罪して仲直り

参考にしたもの↓

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

2巻[魏書Ⅱ]夏侯惇伝(魏書:韓浩、史渙 143P)、夏侯玄伝(魏略 214P)

中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)

三國志 : 魏書九 : 夏侯尚傳 - 中國哲學書電子化計劃

 

素直に謝罪する

張遼の人間性が分かる、貴重なやり取りです。

張遼が合肥に駐屯して、すぐの頃だと思われます。

 

登場人物

胡質(こしつ)字は文徳(ぶんとく)

武周(ぶしゅう)字は伯南(はくなん)

 

将軍が軍を率いて戦に出るためには、護軍(お目付役)が必要です。

張遼の護軍は、武周です。

過去に呂布と同盟を結んだことがある臧覇が、敬愛している人物です。

張遼も、武周を尊敬しています。

その張遼と武周が、仲違いをしていました。

張遼は、揚州刺史の温恢に、胡質を貰い受けたいと願いました。

ところが、胡質は、病気を理由に、断っていました。

このままでは戦に出られないので、張遼、直接胡質に真意を聞きに行きました。

張遼「僕は、あなたに身を委ねているのに、どうしてそっぽを向くの?」

胡質「(省略)武伯南はとても優秀な人物であり、過去には将軍(張遼のこと)も称賛しておられたのに。今は、わずかな(目つきが悪いからという理由で)恨みから憎しみ、仲違いをされてしまいました。私は才能がないのに、どうして最後までつきあえましょうか?私は気が進みません。」

胡質の話に感じ入った張遼は、ふたたび武周と仲良くなりました。

※ちくま正史三国志の日本語訳をちょっぴり変更しました。

 

☆原文

將軍張遼與其護軍武周有隙。遼見刺史溫恢求請質,質辭以疾。

遼出謂質曰:「僕委意於君,何以相辜如此?」

質曰:「(省略)武伯南身為雅士,往者將軍稱之不容於口,今以睚眦之恨,乃成嫌隙。況質才薄,豈能終好?是以不願也。」

遼感言,復與周平。

 

 

 ゲームや漫画などでは、優等生なイメージが強い張遼ですが。

史実の張遼は、当時の武人らしく『舐められたら殺す』的な感情を持っていたんですね!

人間らしくてとても良いと、けろりっちは思います♩

胡質に、遠回しに『あなたとは付き合えませんよ』と言われてしまいましたね。

胡質の話を聞いた張遼、素直に反省して謝罪したのかな?

武周と仲直りできて、よかったですね(*^^*)

 

ところで。

護軍を担当する者は、賄賂を要求していたそうですので。

胡質が賄賂大好きな守銭奴だったら、武周との確執は無視してたかもね?(胡質は、もらった給料や褒美を、配下や民に分け与えていたのか、貯金や蓄えがほぼなかったそうです。)

それか、賄賂を受け取ってまで、張遼とは付き合えないと思ったか。

また、賄賂自体、受け取らない主義だけど、張遼とは付き合えないと思ったか。

 

どちらにせよ、張遼は、悪いことを悪いと指摘してくれる人物に出会えて、よかったですね!

 

今回のまとめ

☆張遼の周囲の人物は、みんな優秀。

☆張遼には『舐められたら殺す』の精神がある。

 (本当に殺すわけにはいかないので、視線を合わさなかったり同席を避けるなど関わらないようにしてるかも)。

☆張遼には、悪いことは悪いと指摘してくれる人物がいた。

☆張遼は、自分が悪いと気付いたら、素直に謝罪できる。

 

 

張遼の人間性が分かる、貴重なエピソードでした!╰(*´︶`*)╯

 

 

護軍について 】けろりっちが認識している護軍について書きました。

参考にしたもの

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

4巻[魏書Ⅳ]胡質伝 

中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)

三國志 : 魏書二十七 : 胡質傳 - 中國哲學書電子化計劃

張遼が怖かったもの

ちくま正史三国志を買い集め始めてから、5ヶ月が経ちました。

ブログを開設して、年表を作り始めてから、約2ヶ月が経ちました。

 

そこで気付いたこと。

 

張遼にとって、一番怖いのは、目の前の敵の大軍よりも、人間関係なのかなぁ?って。

董卓の配下として。

呂布の配下として。

元呂布配下の降将として。

曹操と関羽の間。

于禁楽進李典との不仲。于禁とは趙儼を挟んで仲良くなったけど。

 

ただ伝記だけを読むと、張遼の周りは優秀な人物だらけだし、張遼を陥れようとする野郎もいないし。優秀な人物たちに恵まれたように思えるけれども。

 

当時を生きていた張遼は、わりと世渡りに苦労していたのかな?って。

同じ降伏者の賈詡も、大変だったようだし。

 

仕事でも、仕事内容に不満はないけど人間関係がめんどくさかったり、疲れたりすることは、現代でも同じですよね!

 

合肥の戦いは、温度差がありますね。

張遼「曹操様の命令に従い、出撃する。」

楽進李典、他諸将「ヒソヒソヒソ…撃って出て戦え……?無茶でしょ、曹操様も張遼も何言ってんの?」

張遼「やばい、楽進と李典が私の言う事を聞いてくれるかどうか、怪しいな」

李典「私たちが心配しているのは、あなたが考えてることであって、国家の一大事に私情は持ち込まないですよ!」

勘違いしないでよね!(*`へ´*)プンプンって言ってるような気がする李典。

大軍を相手に撃って出る指示を出されて、困惑する諸将が多い中、張遼は人間関係を心配しているあたりが、もうね。

目の前にいる敵の大軍より、味方の人間関係が怖い。

 

舐められたら殺す=関わらないようにしよう

精神があることが分かった張遼ですが。

自分が悪いと気づいたら、反省して謝罪できるし。

 

董卓や呂布を見て生きてきた張遼は、未来人の私が思ってる以上に、悩むところや思うところがたくさんあったんだろうな〜と、思いました。

 

 

 

 

 

けろりっちの考察のような妄想のような記事を読んでくださり、ありがとうございました。

m(_ _)m

 

建安20年(215年)の合肥組

薛悌が何者か調べた時に『程昱といっしょに曹操の帰還を待ち続けた』っち書いてあって、めっちゃ感動したんだよね!健気じゃん!

 

で、書きながら気づいたけど。

 

合肥組の薛悌、楽進、李典は、古参の兗州組なのね!?

 

古参の兗州組と、元呂布軍の降将と

 

凄い組み合わせだわ。曹操もなかなか酷い( ゚д゚)


楽進李典だけならともかく、護軍(お目付役で将軍の働きを報告する)まで兗州組とあっては、張遼には針の筵だったかもしれない。


温恢は、張遼と同じ并州の出身者だけど、別に張遼を贔屓するわけじゃないだろうし(実力は認めてる)。

仲を取り持つのは大変そう。


蒼天航路の合肥に出てきた温恢は、案外、史実に近かったりして(笑)



これだけ酷い人間関係の状態で、公私混同せず一致団結したわけだから、凄いのよね。

合肥の戦いは、ただ寡兵で大軍を撃退した戦じゃないのよね(b゚v`*)



ここまでお読みいただき、ありがとうございました😊

 

 

張遼の経歴年表作りを頑張ります

 けろりっちが今朝見た夢。



 横山光輝三国志のイラストの張遼・魏延・孫権と、坂本龍馬が出てきました。

 戦後の日本の子どもに病気が流行っている、という設定。

張遼: 戦後日本の子どもたちを病気から救うため、薬を作る。

魏延: 張遼に投降した。張遼が作った薬を試し飲みする治験者。

張遼「子どもたちのためだ、逃げるなよ」

魏延「そんなことしないよ」

孫権:  張遼が作った薬を試し飲みする治験者。なぜ治験者になってしまったのかは、謎です。

 魏延と孫権が薬を飲んで試すたびに、新聞を作って、日本の子育て世代にばらまくという。

 坂本龍馬は、カニを食べようとして、大きなカニと戦ってた。

 
Crab←大きなカニ。甲羅が硬くて刃を通さないカニ。坂本龍馬は、カニの甲羅が硬くて、カニを仕留められない。

 魏延と孫権が薬を飲むテストをして、新聞を作ったところで。

 

 けろりっちは目が覚めました。

 


 張遼で薬といったら。

劉曄が皇帝と同じお医者さんを連れて、張遼のお見舞いに来たことを、年表に書いてなかったです。

 張遼のファンなら誰でも知ってると思ったので。後回しにして、なにもしてなかったです(^^;)

ということで、さっそく『晩年』の年表を加筆しました。

 そこで、ですね。

 病気になったところを追加したときに、大変なことに気付きました。

先日更新した箇所の時系列が、なんと!めちゃくちゃになってました!(@◇@;)アレー?

 考えられる原因は、寝る前に更新して、ちくま正史三国志の張遼伝で確認をしなかったことですね。けろりっちの怠慢です。

けろりっちは、反省しました。

 病気になったところ、曹丕から寵愛を受けたこと、足りない部分を加筆したうえ、時系列をしっかり並べ直しました!チェックもしました!

 きっと、張遼が、夢に出てきてけろりっちに教えてくれたんですね!

 

 羅漢中は、演義を執筆するときに、関羽が夢に出てきたらしいし。(間違ってたらすみません)

 や○ろあ○きさんは、父親が夢に出てきて『ネットに変なこと書くなよ』と言われたそうですし。

 けろりっちは、張遼から『年表(晩年)の時系列、間違ってるよ』と、メッセージをいただいた気がします。

 天国から、けろりっちの年表を読み、見守ってくださってるのかしら???

けろりっちは、年表作りを頑張ります!٩( 'ω' )و

張遼さん、天国からのご指摘、ありがとうございました!(^人^) 




夢の内容自体は、本当に謎なんですけれど。

張遼は薬剤師になったのかな、病気になった子どもたちを救うために薬を作ろうとするなんて、優しいですね(*´艸`)

けろりっちが見た夢の中の話ですけどね!



ここまで読んでくださり、ありがとうございましたm(_ _)m


武成王廟六十四将(ぶせいおうびょう64しょう)

 前漢と後漢、晋を載せます。

本当のことを言いますと、けろりっち、知らない人物ばかりで申し訳ない気分です。

でも、載せるなら全部載せたほうがいいと思って!

載せます。


一応、ふりがな書きます。急に思いついたので、途中です。難しい漢字は読めない(T ^ T)

これから外出するので、後日、書きますので勘弁してください(T∀T;)

 

 

淮陰侯 韓信

(わいいんこう かんしん)

丞相 諸葛亮

(じょうしょう しょかつりょう)

 

前漢(ぜんかん)

相国 平陽侯 曹参

左丞相 絳侯 周勃

前将軍 北平太守 李広

大司馬 冠軍侯 霍去病

梁王 彭越

太尉 条侯 周亜夫

大将軍 長平侯 衛青

後将軍 営平侯 趙充国

 後漢(ごかん)

太傅 高密侯 鄧禹

大司馬 広平侯 呉漢

征西大将軍 夏陽侯 馮異

建威大将軍 好畤侯 耿弇

執金吾 雍奴侯 冠恂

左将軍 膠東侯 賈復

伏波将軍 新息侯 馬援太尉 新豊侯 段熲

太尉 槐里侯 皇甫嵩

魏(ぎ)

征東将軍 晋陽侯 張遼

(せいとうしょうぐん しんようこう ちょうりょう)

太尉 鄧艾

(たいい とうがい)

蜀(しょく)

前将軍 漢寿亭侯 関羽

(ぜんしょうぐん かんじゅていこう かんう)

車騎将軍 西郷侯 張飛

(しゃきしょうぐん せいきょうこう ちょうひ)

呉(ご)

偏将軍 南郡太守 周瑜

(へんしょうぐん なんぐんたいしゅ しゅうゆ)

丞相 婁侯 陸遜

武威将軍 南郡太守 孱陵侯 呂蒙

大司馬 荊州牧 陸抗

(だいしば けいしゅうぼく りくこう)

晋(しん)

征南大将軍 南城侯 羊祜

撫軍大将軍 襄陽侯 王濬

鎮南大将軍 当陽侯 社預

太尉 長沙侯 陶侃

東晋(とうしん)

車騎将軍 康楽公 謝玄

 

 

張遼、最終将軍職は、前将軍のはずですがね!

なぜ、征東将軍なんでしょうね!?

クーデターと『合肥侯国』

★中平5年(188年):張遼は20歳

兾州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯

 冀州刺史・王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らが豪傑と連結し、霊帝を廃位して、合肥侯を擁立する計画を立てる。

以告太祖,太祖拒之。

 曹操に打ち明けたが、曹操は参加を拒否した。

芬等遂敗。

 計画は失敗した。(武帝紀)

時王芬與豪傑謀廢靈帝。芬陰呼歆、洪共定計,洪欲行,歆止之曰:「夫廢立大事,伊、霍之所難。芬性踈而不武,此必無成,而禍將及族。子其無往!」洪從歆言而止。後芬果敗,洪乃服。

 華歆も声をかけられたが、無視した。王芬の計画は失敗した。(華歆伝)

★ 建安5年(200年):張遼は32歳

 未明:揚州の『合肥侯国』の名前を変更して『合肥県』とする。(情報源不明)


馥旣受命,單馬造合肥空城,建立州治,南懷緒等,皆安集之,貢獻相繼。數年中恩化大行,百姓樂其政,流民越江山而歸者以萬數。於是聚諸生,立學校,廣屯田,興治芍陂及茹陂、七門、吳塘諸堨以溉稻田,官民有畜。

 曹操、劉馥(りゅうふく)を揚州刺史に任命する。

 劉馥は、合肥城(揚州九江郡合肥)に入城した。合肥城は空城で荒れ果てていたが、州庁を置いて、雷緒らを手懐けて治安を安定させた。学校を作り、屯田に力を入れて内政を充実させた。河や山を越えて集まった流民で、人口は5桁を越えた。

又高為城壘,多積木石,編作草苫數千萬枚,益貯魚膏數千斛,為戰守備。

 城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積みあげ、草むしろ数千枚を編み、さらに魚の油数千石を貯蔵し、戦争の備えとした。(劉馥伝)

 

けろりっちは驚く

 いつも参考にさせていただいている三国志地図のサイト様の情報によりますと。

 合肥の元々の地名は『合肥侯国』

 廃止された後の地名『合肥県』については、見当たりませんでした。もちろん、年代ごとに、地名や地形が変わっていることもしっかり紹介してくださっているのですが。(けろりっちの探し方が悪いのかも)

 私は私で、合肥侯国という地名が廃止されていたことを、Twitterで知りまして。

 情報源を求めて探した結果、とりあえず下の画像2件がヒットしました。

f:id:keroritti1125:20200910005924j:plainf:id:keroritti1125:20200910005942j:plain

 日本で言う知○○的な掲示板の回答と、Wi○○○diaと似たようなサイト様に載っておりました。

 さらによく見ると、西晋武帝(司馬炎)太康元年(280年)に九江郡が淮南郡に変わって、淮南郡合肥県になってますね!

 へ~( ゚д゚)!

 情報源は探せばあるはずですが、けろりっちの探し方が悪いのか、探しきれませんでした、ごめんなさいm(_ _)m

けろりっちは、張遼を贔屓する者として、また一つ勉強になりました! 

 それにしても、恐ろしいですね。霊帝を廃位しようとするなんて。クーデターですよ!計画は失敗したわけですが、計画に参加した者たちはこの後どうなったんでしょうね?普通なら、一族は連座で処刑ですよね?合肥侯を立てる気でいたようですが、それもどうなったんですかね?


曹操は参加しなくて正解でしたね!


 って書きおわってから気付きました。南陽の許攸って、官渡の戦いの時に曹操に寝返った、あの許攸ですかね?だとしたら、うまく逃げ延びられたんですね。クーデター首謀者の一人である許攸を捕まえられなかったあたり、もうかなり漢王朝は弱ってますね。

 

以上、合肥の地名についてお話しでした。

 

 

参考にしたもの↓

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

1巻[魏書Ⅰ]武帝紀(曹操)

2巻[魏書Ⅱ]華歆伝

1巻[魏書Ⅲ]劉馥伝

中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)

原文はコチラから

武帝紀(曹操)三國志 : 魏書一 : 武帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

華歆傅三國志 : 魏書十三 : 華歆傳 - 中國哲學書電子化計劃

劉馥傅【三國志 : 魏書十五 : 劉馥傳 - 中國哲學書電子化計劃

お借りしました!

 

公孫度(こうそんたく)公孫康(こうそんこう)

《公孫度傳》

公孫度字升濟,本遼東襄平人也。

公孫度(こうそんたく)字は升済(しょうさい)、幽州遼東郡襄平県の人なり。

(省略)

初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」

初平元年(190年)、公孫度は中原の騒乱を知ると、目をかけていた官吏の柳毅・陽儀らに「漢の命運は絶えんとしている。いまこそ、諸君らとともに王の位を狙うべきだ」と語った。

(省略)

分遼東郡為遼西、中遼郡,置太守。

遼東郡を分割して遼西中遼郡、太守を置く。

越海收東萊諸縣,置營州刺史。

海を越えて、青州の東萊郡諸県を収め、営州刺史を置く。

自立為遼東侯、平州牧,追封父延為建義侯。

自立して遼東侯、平州牧に為る。父・公孫延を建義侯に封じる。

立漢二祖廟,承制設壇墠於襄平城南,

 (編集中)

郊祀天地,籍田,治兵,乘鸞路,九旒,旄頭羽騎。

 (編集中)

太祖表度為武威將軍,封永寧鄉侯,

太祖(曹操)、上表して公孫度を武威将軍、永寧郷侯に封じる。

度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬武庫。

公孫度曰く「私は遼東王だ、何が永寧か!」印綬を、倉の武器庫に閉まった。

度死,子康嗣位,以永寧鄉侯封弟恭。

公孫度が死ぬと、子の公孫康が位を嗣ぎ、弟の公孫恭を永寧郷侯に封じた。

是歲建安九年也。

この歳、建安9年(204年)なり。

十二年,太祖征三郡烏丸,屠柳城。

建安12年(207年)、太祖(曹操)、三郡(右北平・遼西・遼東)の烏丸を征伐し、柳城を屠る。

袁尚等奔遼東,康斬送尚首。

袁尚ら遼東へ奔るも、公孫康に首を斬られて(曹操へ)送られる。

語在武紀。

このことは武帝紀にある。

封康襄平侯,拜左將軍。

公孫康は、襄平侯に封じられて、左将軍を拝命した。

康死,子晃、淵等皆小,衆立恭為遼東太守。

公孫康が死ぬと、子の公孫晃と公孫淵はまだ子どもで小さいので、衆(人々)は公孫恭を立てて遼東太守とした。

文帝踐阼,遣使即拜恭為車騎將軍、假節,封平郭侯;追贈康大司馬。

文帝(曹丕)、使者を遣わして、すぐに公孫恭を車騎将軍に拝命し、仮節、平郭侯に封じた。公孫康には、大司馬の官位を贈った。

けろりっちから見た、公孫氏の性格。

公孫度(こうそんたく)

 過激派。出世して、やりたいことやって亡くなった。野心家のように見えるけれども、皇帝は名乗らなかったし、印綬を武器庫に入れて「見なかったことにする」スタイルは、可愛げがあって良いと思います。

公孫康(こうそんこう)

 公孫度の息子。公孫恭の兄。野心はまぁまぁあったか?要領がいい人だと思った。

 白狼山の戦い後、袁尚と袁煕の首を曹操に送るのは、この人。

公孫恭(こうそんきょう)

 公孫度の息子。公孫康の弟。病気がち?常識人。

 大人になった公孫淵に追い出された人。ちょっとかわいそう。

公孫晃(こうそんこう)

 公孫康の息子で、公孫度の孫。公孫淵の兄。常識人。

 洛陽で働いている。父親に似たかも?

公孫淵(こうそんえん)

 公孫康の息子で、公孫度の孫。公孫晃の弟。過激派。

 祖父以上の過激派。野心が突き抜けた結果、司馬懿に殺られる。

柳毅(りゅうき)

 公孫度・公孫康の配下の将。

 青州東莱郡で、張遼(と何夔)に討伐される人。

陽儀(ようぎ)

 公孫度・公孫康の配下。何者かは分かりません。

参考にしたもの↓

ちくま正史三国志(ちくま学芸文庫)

2巻[魏書Ⅱ]公孫度伝

中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)

原文はコチラから【三國志 : 魏書八二 : 公孫度傳 - 中國哲學書電子化計劃】お借りしました!

張遼の武勇2

張遼が

☆戦いを主張するとき

☆周りの意見を無視してでも戦うとき

は、勝算があるからなんだね。



☆昌豨の説得に単身乗り込んで、曹操に怒られた後の言い訳とか。

張遼「明公(曹操)の威光は天下に広まっているので、わたしたちに逆らう勇気なんて、昌豨にはありませんよψ(`∇´)ψ」

けろりっちは考える。

いくら呂布軍時代に、臧覇つながりで交流があった可能性があるとはいえ(あくまで可能性)。

この時点で昌豨の反乱は4回目。

この時代は乱世、親友どころか親族が殺し合う時代ですから、曹操は、張遼のことを真剣に心配してくれたのかもしれないヽ( ̄д ̄;)ノ


☆白狼山→鳥丸兵とうっかり出くわしてみんな怖がってるときに、一人だけ戦闘を主張する。

曹操、大将旗を張遼に授ける。

曹操軍大勝利☆


☆陳蘭梅成→危ないからやめようっち言ってるのに、灊山の道の細さを見た張遼「これは一対一の戦いだ!勇者なら通れる!」と諸将の忠告を無視。

陳蘭梅成を討ち取り、数万人の兵士を降伏させる。

曹操大喜び☆


☆合肥→決死隊を募り、自ら先頭に立ち、自分の名前を呼びながら奇襲をかける。李典もいる。

たった10日で、孫権に撤退させる決意をさせた(疫病は建前)

遠くから、撤退していく孫権軍を確認すると、諸将を率いて追撃をかける。

強烈なトラウマを孫権に与える。

曹操感激☆



★逆に、217年の濡須口では、この戦は勝てない無理と判断したのか、撤退するしないを臧覇に相談してる。(ここは臧覇伝をちゃんと読むと分かります)



戦場の流れを見極めて、的確に判断して行動できる。めっちゃかっこいいですね!素敵ですね!

脳筋を超えた脳筋とか

智勇兼備とか

大好きです(//∇//)♡キャーキャー